敗戦後の朝日社内は、村山長挙社長をはじめとする、原田譲二(代表
取締役)、鈴木文四郎(常務)、北野吉内(取締役)らの一派と、緒方派の
流れをくむ千葉雄次郎(取締役・編集総長)、細川隆元(東京編集局長)、
香月保(大阪編集局長)、白川威海(取締役・西部編集局長)、佐佐弘雄
(論説主幹)、嘉治隆一(同)の編集幹部6人が対立を強めていた。
派閥が生まれた原点は村山長挙社長と、主筆や副社長を務めていた
緒方竹虎(昭和19年に退社し、情報局総裁に就任)の確執にあったとさ
れている。
創業社長村山竜平の死後、その養子である村山長挙は昭和15年に社
長になったものの、対外的に朝日の顔といえば緒方竹虎だった。
例えば、緒方は政府が設置する各種委員会への参加を求められ、様々
な委員会のメンバーになったが、村山にはそうした誘いが一つもなかった。
村山にしてみれば、こうした緒方の名声が面白くなかったことは想像に難くない。
そうした両者の対立が決定的になったのは昭和18年夏頃であった。当時、
緒方と同じく専務であった石井光次郎は、村山に対し、退任と新社長への
緒方起用を提案したのである。その理由は、新聞経営は資本家と経営者
を分離することで、健全化が図れるというものだったが、この進言で村山
と緒方の溝は一層深まったとされる。
一方、派閥は違う角度からも生まれつつあった。それは職場間の対立
である。戦時中の朝日社内は@東京本社と大阪本社、A政治部・経済部
の硬派記者と社会部の軟派記者ーの折り合いが悪い状況が続いていた。
大阪がもともと本社だったにもかかわらず、日中戦争勃発の頃から東京
本社の存在が大きくなっていったことや、政治部の硬派記者は、他の部署
に比べ、待遇が良かったことなどが対立の要因だった。
その東京本社で硬派記者の筆頭に立っていたのが緒方竹虎で、政治、
経済、論説などの硬派の記者達が緒方一派と見られていた。
一方、反緒方の立場を取る村山は、大阪派や軟派と手を組み、”緒方
つぶし”を画策。昭和19年には緒方を干す形の人事刷新を行い、辞職に
導いている。その大阪派の代表が原田譲二であり、軟派の代表が鈴木
文四郎であった。
緒方が去った後の敗戦直後も、村山一派と細川隆元ら緒方派残存勢
力である編集幹部との対峙は続いていたのである。