こうした幹部達は、自らの戦争責任についてどう考え、どう対処したのだ
ろうか。敗戦から8日後の8月23日の朝日紙面には、「自らを罪するの弁」
と題する社説が載った。この社説は「(敗戦の責任は)決して特定の人々
に帰すべきでなく、一億国民の共に偕に負うべきものであらねばならぬ。
さりながら、その責任には自ら厚薄があり、深浅がある」と断った上で、
「特に国民の帰趨、輿論、民意などの取扱に対して最も密接な関係をも
つ言論機関の責任は極めて重いものがあるといわねばなるまい」と、こ
れまでの朝日新聞の責任を認める内容になっている。
ただ、責任を国民全体に分散し、権力者の戦争責任をあいまいにして
いるうえに、内容は具体性に乏しく、どう責任を取るのかについては全く
触れていない。この社説は、当時の新聞の中で、新聞の戦争責任を認
めた初めてのものとされるが、中途半端ともいえる内容に読者によって
は不満を感じたかもしれない。
一方、毎日新聞では8月20日に社長の奥村信太郎が単独で辞表を書
いたのに続き、29日には有力幹部が自発的に退陣した。辞職することが、
戦争責任を取る最適な方法かどうかは別として、戦争責任を具体的な形
で表したのは毎日新聞の方が早かったわけだ。
何故、朝日の幹部は毎日のように敗戦後すぐに退陣しなかったのか。
朝日は「自らを罪するの弁」で「吾人自ら如何なる責任も如何なる罪もこ
れを看過し、これを回避せんとするものではない」と宣言しておきながら、
個々の幹部や記者達には自発的に責任を取る姿勢が欠けていた上に、
派閥抗争が表面化したため、社の方針がまとまらなかったためだ。