私も全国的に長谷部の意見に同感の意を表し、傍にいた編集局次長兼
整理部長の杉山勝美に意見を徴したところ、彼も全然同意見であったの
で、私は、
「下村声明と阿南声明とは、これを並べて同じ大きさに扱おうではないか」
と、指示したのであった。
たとえ敗戦が見通され、或いは敗戦となっても、まるで掌を返すように新
聞編集の調子を、ガラリと変えることはすべきでない。ステップ・バイ・ステップ
に調子を変えていくべきだというのが、終戦になってからもしばらくの間の
私の編集方針だった。
米軍による空襲、日本軍特攻機による体当たり攻撃は敗戦の8月15日
まで続いた。敗戦間際に戦争の犠牲になった人達がこの話を知ったらど
う思っただろうか。朝日がいち早く、日本が敗戦に向かっていることを知ら
せれば、これらの人々が命を落とすことはなかったかもしれない。
しかし、朝日は自らの判断で公式発表まで敗戦を示唆する紙面を作りを
避けた。当時の政治部長長谷部忠(のち社長)は新聞の役割は戦争をス
ムーズに終わらせること、と述べたとされている。しかし、新聞は報道機関
である。政府や軍ではない。国民に期待されているのは正しい情報を与え
ることだ。
戦争を長引かせれば、犠牲者が増加するのは自明である。にもかかわ
らず、朝日は起こるかどうかもわからない国内動乱回避を優先したので
ある。そもそも、国内動乱を恐れたのか。当時の政府部内では、敗戦によ
りこれまで耐乏生活を強いられていた一般国民の不満が爆発し、革命が
起こるのを何よりも恐れていた。
そうなれば軍や政府に寄り添ってきた朝日の存在も危うい。こう考えると、
朝日は徐々に戦争終結にもっていくことで、読者の朝日に対する怒りを
抑えようとしたのではないかと考えられなくもない。戦争をスムーズに終わ
らせ、紙面はステップ・バイ・ステップで変えていくーーー。社の存続を
かけた、実にしたたかな戦略があったのではないだろうか。8月15日の敗
戦の日にもこの方針を確認するような様子が次のように書かれている。
その日の午後、社長村山長挙出席のもとに編集局部長会議が開かれ
た。私はこう述べた。
「仕事は平常どおりやっていこう。何も動揺することはない。今まで一億
一心とか、一億団結とか、玉砕とか、醜敵撃滅とかいう最大級の言葉を
使って文章を書き綴って、読者に訴えて来たのに、今後はガラリと態度
を変えなければならない。これはしかたのないことだが、それだからといっ
て、昨日の醜敵が今日の救世主に変ったような、歯の浮くような表現も
とられまい。まあだんだんに変えていくことにしようじゃないか。マックアー
サーが乗り込んで来ても、新聞に関するかぎり、日本が占領地でやった
ようなバカげたことはやらぬと僕は思う。何ごとによらずあんまり先走った
ことはよそう。ボツボツいこうじゃないか。とにかく落ち着いてやりたいから、
各部でもそういう方針でやってもらいたい」
とざっくばらんに私の編集に対する心構えと根本方針を述べた。村山も、
「それがよかろうな」
といった。政治部長の長谷部も、
「もう社員の間には、この際新聞は百八十度転換した態度をとるべきだと
いう議論も出ているが、そう一ぺんに現金な態度の転換は良心が許さぬ
し、また読者にも相済まぬような気持がするから、あまり不自然な敗戦迎合
の態度はやめたい」
と、これも私との方針全然一致する発言をした。
さんざん虚偽の報道を積み重ね、国民を戦争に駆り立てる紙面を展開
しながら「まあだんだんに変えていくことにしようじゃないか」で意見一致で
ある。そこには、国民、読者に対する深刻な罪の意識はうかがわれない。