米軍のB29による日本本土爆撃は、昭和19年6月16日の北九州爆撃
から始まった。空襲は同年末から本格化し、昭和20年8月15日の終戦
の日まで続いた。
地方都市を含め60以上の都市が爆撃され、艦砲射撃による被害を含
めると、全国の被害は死者約50万人、被災者約1000万人、焼失家屋
数は約220万戸に上った。朝日紙面には敵機来襲を伝える記事は頻繁
に登場するが、被害の状況についてはほとんど触れていない。
新聞社自体も空襲の被害を受けるところが続出した。昭和20年5月27日
朝刊は題字が「朝日新聞」から「共同新聞」に変わった。空襲により読売
報知(現読売)、東京両新聞社が全焼したため、朝日が他紙の印刷を代行したのである。
翌28日から3日間は「朝日、読売報知、東京」の共同題字になっている。
1日目に比べ、2日目以降は読売、東京の社名が拡大されている。社名を
小さく印刷された両社が朝日に抗議したのかもしれない。
空襲にともない国民の間に広がったのが、デマである。紙面にはデマを
防ごうとする記事が登場している。昭和19年秋には、「10月15日に東京大空襲がある」
という噂が広がったほか、翌20年には「らっきょうを食べれば(空襲の)被害を受けない」
という迷信も広がった。
朝日は空襲が日増しに激化しても、国民は被害に耐え抜き戦争を継続せよ、
と訴え続けた。空襲の被害が全国に及んだ同20年8月段階でも、地方の人々
は、焼け跡に立ち向かった東京人に比べ精神力において総じて劣っていると
いう、と地方の人々に反省を促しているほどだ。
その一方で、当時の人々の中には、空襲を恐れない人々もいたようだ。投書
欄には、空襲下に家で眠り続ける人の話や、焼夷弾を手でつまんで庭にポイ
と捨てたといった武勇談が掲載されている。
また、米軍が空から投下したのは爆弾や焼夷弾だけではなかった。日本国内
の人心をさらに動揺させようと、航空機で宣伝ビラ、いわゆる「紙の爆弾」を大量
に撒いた。終戦までに日本各地に散布されたビラは約460万枚に上るといわれ
ている。
その内容は空襲の予告や日本軍部批判、降伏勧告など多岐にわたっていた
が、朝日は「笑わせる”紙の爆弾”」との見出しで、これらを一笑に付している。