天声人語 2009年3月2日(月)付
「美しき星の下に」というシャンソンがある。詞と曲は「枯葉」のコンビ、女神ジュリエット・
グレコがデビュー間もない1951年に吹き込んだ。〈腹ぺこの浮浪者はベンチで眠り、老いた
娼婦(しょうふ)たちはまだ客を引く……〉。底辺の日常がカラリと描かれる。
曲を詠み込んだ一首がある。〈美しき星空の下眠りゆくグレコの唄(うた)を聴くは幻〉。作
者の公田耕一さんは、朝日歌壇に現れた自称ホームレスだ。この歌は選外ながら、耳底に残る「良
き時代の音」に、野宿の身を重ねて哀(かな)しい。
横浜の人らしいが、その境遇までが「作品」なのか、確かめようはない。読者の激励を届けた
い、ずっと歌壇とつながっていてと願い、担当者は「ホームレス歌人さん、連絡を」と記事にし
た。その後も黒いボールペンの細字で、連絡先のない投稿が続いている。
在パリのシャンソン愛好家、長南(ちょうなん)博文さんからお便りが届いた。「この曲を知
る人はファンでも少ない。50年代に青春を送った70歳前後のフランス通か」との推理だ。
〈百均の「赤いきつね」と迷ひつつ月曜だけ買ふ朝日新聞〉。月曜朝刊の歌壇は新しい紙面で、
という潔さがうれしい。グレコの日本公演を長く手がける中村敬子さんは「若くして欧州の文化
を愛したであろう方が食うや食わずなんて、胸が詰まります」と語る。
春が来て幻に聴く曲も変わろう。詮索(せんさく)は控え、新星の輝きを見守りたい。その「住
所」は作歌の背景にして源泉、それで十分だ。知りたくもあり、知りたくもなし。読者と一緒に
迷いながら、週の初めに書く。
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それで十分、ですか。知りたくもあり、知りたくもなし。匿名の闇もまた美しからずや。
まあ、勝手なものである。