☆朝夕の娯楽★天声人語&素粒子。48が狭い★

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355文責・名無しさん
天声人語 2008年02月06日(水曜日)付

 きのうの本紙川柳欄の〈雪国にごめん都の三センチ〉に、思わずにやりとした。わずかな雪で
交通機関は乱れ、転倒者が続出する。作者は埼玉の人らしい。雪深い地のたくましさを思い、い
ささかの自嘲(じちょう)を込めて詠んだとお見受けした。

 思えば、雨や風に対する受け止め方は、日本中、そう違いはない。10ミリの雨は、どこに降っ
ても「10ミリ」だろう。5メートルの風もしかりである。しかし雪は、暖地なら数センチで
ニュースになる。片や豪雪地なら、この程度はチリが舞ったほどでしかあるまい。

 江戸時代の越後人、鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』には、雪の激しさ
と暮らしの労苦のさまが詳しい。〈されば暖国の人のごとく初雪を観(み)て吟詠遊興のたのし
みは夢にも知らず〉。雪を恐れ、そして畏(おそ)れる心情を、言葉を尽くして説いている。

 その雪を甘く見たのだろうか、冬の山から報道が相次いだ。長野のスキー場では、大学生2人
が雪崩で亡くなった。広島ではスノーボーダー7人が吹雪の中で行方不明になった。こちらは幸
い、全員無事に見つかった。

 吹雪と雪崩は難儀の双璧(そうへき)だと、『北越雪譜』は言う。現代の管理されたゲレンデ
も変わりはない。まして一歩踏み出せば、豪雪に慣れ育った人々をも葬ってきた、ごまかしのな
い純白の世界である。

 雪氷学の草分けだった中谷宇吉郎は、状況次第で様々に姿を変える雪を「天から送られる手紙」
と呼んだ。それを悲しい手紙にしてしまってはなるまい。うっすら3センチの都会でも、白銀の
招くスキー場でも、甘く見るのは禁物である。