朝日新聞 2006年(平成18年)8月2日 水曜日
大阪 13版 22面 歴史と向き合う 第3部 追悼のかたち(2)
靖国神社 存続へ奔走
遺族や戦友 減少する支え手
靖国神社や全国各地の護国神社が、そのあり方をゆっくりと変化させている。戦後、神社を支
えてきた遺族や戦友たちが次第に減少しているためだ。「慰霊の時代」の終わりを見据える神社
側は、追悼をめぐる議論の渦中にあって、信仰の新たな担い手の獲得に追われている。
(西本秀)
靖国神社の展示施設「遊就館」で上映されている映画「私たちは忘れない」の最後のシーン。
はためく日の丸を背景に戦没者の遺影が次々と映し出され、女性ナレーターが題名と同じ「忘
れない」というセリフを計4回、繰り返す。
その言葉は、神社と遺族が抱く「このままでは、英霊の記憶が消え去ってしまう」という、危
機感の裏返しでもある。
戦後61年。
靖国信仰の担い手だった遺族や戦友の多くは鬼籍に入る。妻・両親の人数の目安となる年金受
給者は、最大時の10分の1を切った=グラフ。
次世代への継承。それがいま靖国の課題だ。
□ ■
(続く)
(続き)
若者教化「美しい」戦争観発信
6月下旬の週末。
♪海ゆかぱ 水漬(みづ)く屍(かばね)
夕暮れの境内に戦時中の歌が響いた。スーツ姿で肩を組んで歌うのは、20〜30代の若者たち。
一般の神社の氏子組織にあたる靖国神社崇敬奉賛会の青年部「あさなぎ」の部員たちだ。
今年2月に発足した。学生やフリーター、会社員、元自衛官ら300人が加わる。月1回、皇居の清
掃や神社への奉仕作業などをする。この日は奉納武道を見学した後、懇親会を開いた。
崇敬奉賛会のホームページの掲示板にアクセスした若者数人が、「勉強会をしよう」と呼びか
けたのがきっかけだった。当初は「憂国同志会」「立青会」など、政治結社を思わせる名称案も
あったが、最終的には、昭和天皇がつくった神楽の歌詞から「あさなぎ」の言葉を選んだ。
発足メンバーの益田健太郎(27)は、通信システム会社の営業担当だ。高校を中退し大学を目
指していたとき、「ゴーマニズム宣言」で知られる漫画家、小林よしのりの「戦争論」を読んで、
靖国に初めて足を運んだ。
自分の将来のことで頭がいっぱいだったころ。同世代の特攻隊員が、家族や国を思って残した
遺書を読んで涙が止まらなかった。「自分の悩みなんてちっぼけだなーって。気高く、真剣に、
頑張らなきゃと思えた」
まじめで、少し不器用で。生きる切実さを探す彼らを、「靖国の戦争観」が引きつける。「文
字通りの『命がけ』にあこがれた」(22歳男子大学生)、「人のために犠牲になる。自分もそう
ありたい」(26歳女子大学生)。
靖国が遊就館の展示や映画によって描き出す戦争は「自存自衛」「植民地解放」が目的だった
として、侵略性を否定する。一人ひとりの戦没者を「英霊」に祀(まつ)ることによって、戦争
全体の負の側面は見えなくなる。
だが、益田はこう語る。「歴史を知らなかったから、靖国の言うことはすんなり頭に入った。
実際、英霊はそう信じて戦ったんだと思う。僕らは、彼らに恩返ししたいだけなのに、そこを中
国や韓国に非難されるのは納得できません」
□ ■
(続く)
(続き)
「慰霊」から「顕彰」強まる思想性
若者に受け入れられる「靖国史観」。神社は青年部発足を「教化に力を入れてきた成果」(松
本聖吾・崇敬奉賛課長)と歓迎する。
神社側が、従来の「奉賛会」を再編して「崇敬奉賛会」を組織したのは98年。企業から寄付金
を募る活動から、個人に信仰を広める活動に軸足を移し、西尾幹二ら保守論者や、自民党幹事長
代理だった安倍晋三の講演会などを企画してきた。
施設面でも、00年、ハイヒールや車いすでもお参りしやすいよう参道の玉砂利を石畳に改修。
02年に遊就館を増改築した。いずれも、新たな参拝者の開拓が狙いだ。
今年3月末の崇敬奉賛会員は約8万人。この1年で3千人以上減った。02年の9万4千人をピークに
減少を続ける。
存続をかけた、時間との競争。夏のキャンプや七夕まつりなど子ども向け行事、広島・呉の
「大和ミュージアム」などを訪ねる青少年の「英霊慰霊顕彰の旅」……次々と新しい企画を打ち
出す。
次世代教化に奔走する神社の姿を、「靖国神社」の著書がある立命館大教授の赤澤史朗(58)
は「神社の性格が、慰霊から顕彰へと重心を移し、イデオロギー性を強めている」と見る。
「慰霊」は戦没者の霊を慰めること、「顕彰」は戦没者をたたえて後世に伝えること。このふ
たつは靖国の大きな役割と言われてきた。「慰霊」がしだいに後景にさがり、入れ替わりに、
「顕彰」が持っていた思想性や政治性を売りにする時代。
赤澤は言う。「黙っていても遺族が参拝してくれた時代は終わり、足を運んでもらう新たな意
味づけが必要になっている。靖国側は、若者を狙って復古的な歴史観を発信し、若者側は『初め
て聞いた』と新鮮に受け止める。靖国が現在のナショナリスティックな風潮と共鳴し、そのシン
ボル的存在になりつつある」
実際、奉賛会員は減っているのに、小泉首相の参拝や「A級戦犯」合祀(ごうし)が物議を醸す
ほど、靖国はメディアに取り上げられ、国民の関心を呼ぶ。昨年8月15日の参拝は過去最大の
20万5千人。遊就館の見学者は改装から増え続け、昨年は計36万人に達した。
□ ■
(続く)
(続き)
遊就館の映画「私たちは忘れない」の冒頭。
東条英機元首相らが裁かれた、東京裁判のモノクロ映像の上に、米国の占領や同裁判を批判す
る字幕が重なる。
「(占領は)日本人の精神構造にまで踏み込んだ徹底したものであり、とりわけ特定の歴史観
を日本国民に強制した」
背景に流れる音楽は、バンド 「X JAPAN」のヒット曲「フォーエバーラブ」。小泉首相がファ
ンで、自民党のCM曲にも選ばれ話題となったバラードだ。
♪変わり続けるこの時代(とき)に
変わらない愛があるなら
戦後という時代への反発を、新たな装いで包み、靖国は英霊への「永遠の愛」を歌う。
(敬称略)
--------------------
(続く)
(続き)
二世代が過ぎ、曲がり角に
靖国神社崇敬者総代 京都産業大教授(日本法制文化史)
所功(ところ いさお)氏
靖国神社はどこに向かうのか。同神社の崇敬者総代で、戦没遺児でもある京都産業大の所功教
授(64)に聞いた。
◇
靖国神社は今、大きな曲がり角にある。1世代30年なら2世代分の時が過ぎた。戦死した父の顔
も覚えていない幼子だった私が還暦を超した。仏教的な風習からすると、五十回忌が過ぎれば慰
霊は一区切り。遺族という枠組みだけで何世代も英霊祭祀(さいし)を継承するのは限界に来て
いる。
靖国も深刻に考え、この十数年、すそ野を広げようと努めてきた。歴史家として私も手伝った
遊就館の改装もその一つ。戦争を知らない若い世代が気軽に足を運べるよう、説明や図示も工夫
している。
日本人の宗教観を説明する際、「近い先祖は仏様、遠い先祖は神様」という言葉がある。これ
まで父や夫という顔の分かる存在だった戦没者が、今や「ご先祖様」としての神に昇華する過渡
期。英霊は日本人の集合的なご先祖様になろうとしている。それは戦争の記憶が遠のき、歴史に
なりつつある動きと重なる。
米国に「公民宗教」(シビル・レリジョン)という概念がある。キリスト教などをベースにし
た国家への忠誠心が、国民統合の役割を果たしているという見方だ。
靖国が、日本の公民宗教として機能することには、賛否が分かれるだろう。しかし、近代日本
の形成と独立を守るために亡くなった英霊によって今がある。人々がその存在を知り、国民であ
ることを自覚する場に、靖国がなることを期待する。
41年生まれ。父親が43年、ソロモン諸島で戦死。04年から靖国神社崇敬者総代の一人。
◆明日は「各国はどう追悼しているか・米国編」です。
--------------------
(続く)
(続き)
ウエディングや慰霊旅行…新たな参拝者獲得に苦心
各地の護国神社
各地の戦没者を祀る護国神社も、時代への適応を迫られている。
「ウエディングガーデンが感動オープン」
結婚情報誌「ゼクシィ新潟版」8月号の巻頭広告。純白のドレス姿の花嫁がアピールする「迎賓
館TOKIWA」は新潟県護国神社が経営する。昨年は400組が挙式、野外式場に使える庭園を6月に整
備した。
「カップルの多くは最初、ここが戦没者の神社とは知りません」と神職の伊藤豊彦(50)。婚
礼を機に、将来の初宮や七五三など新たなお参りにつなげるのが狙いだ。慰霊に特化しない、こ
うした多角経営の試みを、内部では「一般神社化」と呼んでいる。
靖国神社と同じく、若者教化を狙うのは福島県護国神社。全国最年少宮司のひとり冨田好弘
(41)は一昨年から地元の若者に境内を開放し、コンサートを開く。実行委員の若者に「新しい
歴史教科書をつくる会」のパンフレットを配布。コンサート中に黙祷(もくとう)の時間も設け
た。DJの藤原一裕(29)は「神社に来ると、自然に頭を下げるようになった」。
多角化路線とは一線を引く神社もある。靖国で祭儀課長を務め、千葉県護国神社の宮司となっ
た竹中啓悟(46)は「慰霊重視派」。靖国時代、おみくじを扱い始めたころに、「この神社は、
おみくじを売るような場所じゃない」と、参拝者から苦言を呈された。
同神社は栃木県護国神社と共に、00年から海外の戦地を遺族とめぐる旅を企画する。6月にサイ
パンを訪ねたのは3組の遺児夫妻。南洋ザクラが咲く慰霊場で、栃木県大田原市の前田義弘(66)
は呼びかけた。「記憶にない父ちゃん、ようやく来たよ」。神社側は、仕事や子育てを終えた遺
児を、当面の信仰の担い手として期待する。
一方、将来の見通しが立たない神社も。境内の慰霊碑が草に覆われた青森県護国神社。正式参
拝は月に数件ほど。神職は常駐せず、地元の稲荷神社の宮司が兼務する。
県遺族会が1億円かけて社務所を改築し、毎年400万円を奉納するなどして支えてきた。しかし、
遺族会も高齢化が進む。成田洲悦事務局長(66)は「いざとなったら、神社庁に管理を委託でき
ないか」。会内部で検討を進める。
(続く)
(続き)
護国神社 明治初め、戊辰戦争の死者を各藩などが弔った地方招魂社が起源。1939(昭和14)
年、内務省が「護国神社」と改称させ、1道府県1社を原則に指定し再編した。戦中は台湾など植
民地にも置かれた。
現在、靖国神社には全国護国神社会の事務局が置かれ、52社が加盟。東京、神奈川を除く45道
府県にあり、北海道や岐阜、広島などには複数ある。それぞれ宗教法人として独立しているが、
戦没者は靖国に合祀されると同時に、出身地の護国神社にも祀られる。殉職自衛官を祀る護国神
社もある。
--------------------
以上。
誤字脱字などありましたらお詫びいたします。