☆朝夕の娯楽★天声人語&素粒子。43の国へ★

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826文責・名無しさん
【天声人語】2006年06月28日(水曜日)付

半世紀近く前のことである。学校からの連絡や保護者の短文を載せたガリ版刷りの学年通信が、時折配られた。
ある時、万葉集から山上憶良の歌を引きつつ我が子への愛をつづった、ひとりの母親の随想があった。

〈銀(しろがね)も金(くがね)も玉もなにせむに優(まさ)れる宝子にしかめやも〉。
母親の率直さに驚きながらも、大きな愛に包まれているだろうこの生徒の家を想像した。

憶良の歌は、子どものかけがえのなさや、やむにやまれない親心を表している。そうには違いないが、いにしえの
世からこの歌が光り輝き続けていることの裏には、この宝の、一筋縄ではいかない扱いの難しさがあると思う。

親は、子のためと思って、時には厳しく子どもに接する。子どもは、従うか、無視するか、抵抗する。子が、
親の厳しさを自分のためと思うか、親自身のためと思うか。この辺りが一つの分かれ目だろうが、厳しさの
案配は悩ましい。

「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)」
(サン=テグジュペリ『星の王子さま』岩波書店・内藤濯訳)。大人は必ず子どもを経て親になるが、子どもに
親の経験はない。当たり前のことだが、難しさの根本は、こんなところにあるのかも知れない。

サン=テグジュペリは、こうも述べている。「子ども時代、だれもがそこから出てきた広大な領域!」
(『戦う操縦士』みすず書房・山崎庸一郎訳)。それぞれがたどってきた広大な領域を思い起こしながら、
ゆっくりと、深呼吸でもしてみようか。