3月8日付朝日新聞東京本社版朝刊オピニオン面より
漂流する風景の中で
辺見庸さんと考える 小泉時代とは
後の世に顔向けできるか
「劇場」と「観衆」の5年間
絶え間ない「改革」の呼号と制度改変――。21世紀初め、日本社会の急激な変容を方向づけた
「小泉時代」とは何なのか。そして私たちは今どのような地点にいるのか。小泉氏の首相就任から
5年になるのを機に、作家の辺見庸氏に寄稿してもらった。
新たな国家像への期待と、足元を掘り崩されるような不安が交錯し、流れの行き先はよく見えな
い。移り変わる社会の底流を、新シリーズ「漂流する風景の中で」で随時考えていく。
「一犬虚に吠ゆれぱ万犬実を伝う」という。1人がでたらめを語ると、多くの人々がそれを真実と
して広めてしまうものだという後漢のたとえである。小泉執政の5年ぐらいこの言葉を考えさせられ
たことはない。
私の興味は「一犬」の正体や小泉純一郎という人物のいかんにあるのではなく、「万犬」すなわち
群衆というものの危うい変わり身と「一犬」と「万犬」をつなぐメディアの功罪にある。
もっといえば、21世紀現在でもファシズム(または新しいファシズム)は生成されるものか、この
社会は果たしてそれを拒む文化をもちあわせているのだろうか――という、やや古典的な疑問を持ち
つづけている。
小泉政権誕生直後のマスコミは、私の印象では、総じて”悪い熱病”にかかっているようであった。
「神の国」発言などで末期には支持率6%前後という不人気をかこった前政権は、政策といいパ
フォーマンスといい、たしかに退屈でいささか不快ではあった。 その反動もあって新たに登場した
小泉政権は清新の気や変化の兆しを感じさせたのであろう、いっとき80%近くの驚異的支持率を獲
得し、多くの人々が政治アパシー(無気力)から一気に政治的観衆と化していった。
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群衆のこの素迷い変わり身にひやりとしたのは私だけではあるまい。変身に政治的な成熟ではなく、
過剰に情緒的なものを感じて危ぶんだ人々も少数涙ながらいるにはいたのだ。
しかし、こうしたプロセスにマスメディアはなにがしか制動の役割を果たしたかといえば事態は逆
で、むしろ拍車をかけていったかに見える。
--続く