朝日新聞 2006年(平成18年)3月2日 木曜日 オピニオン面
靖国参拝「心の問題」か
首相の憲法観の是非 「政教分離」軸に検証 より
権力者を縛るのが憲法/「公の私化」進行を危惧
憲法学者・樋口陽一さん
小泉首相は、総裁選挙に立候補する時から靖国神社に参拝することを公約に掲げ、靖国神社参
拝を政治の問題としてあえて提起した。その人物が、憲法19条を取りあげて、一般私人に「心の
自由」があるのなら総理大臣にも同じように「心の自由」があるという論理を展開するのは真意
をはかりかねる。
言うまでもないが、憲法は公権力の行使者の言動に制限をかけるものだ。それは権力を持たな
い一人ひとりの市民にとって、自分の自由を守るための盾となるのが憲法であるということを意
味している。
小泉氏の論理の矛盾は、内閣総理大臣という最高権力者にかけられている憲法の制限を取り払
う根拠に、もともとは権力者を縛るはずの憲法を持ち出していることにある。
しかも、政教分離が日本国憲法に盛り込まれた文脈を、一国の指導者として理解しているのか
という疑問もある。
歴史的には、政教分離はキリスト教文化圏で生まれた。宗教権力が世俗権力よりも優位だった
欧州社会とは異なり、日本では世俗の政治権力が宗教を利用した歴史を持つ。とりわけ、戦争遂
行と「士気高揚」という世俗目的のために国家神道が動員された反省に立ち、日本国憲法で政教
分離規定が定められた。
日本の政教分離が、何より国家神道に向けられたものであることを考えても、軍国主義の精神
的支柱の役割を果たした靖国神社に首相が参拝することが憲法との間で緊張を強いられるのは当
然のことだろう。
(続く)
(続き)
最高権力者が自らの意のままに振る舞うために「心の自由」を持ち出す一方で、良心に照らし
て個人がしたくないことを無理にさせるという強制が現実に起きている。
入学式や卒業式での国旗掲揚や国歌斉唱をめぐり、「起立できない」「君が代を歌えない」と
して起立しなかった教師の「心の自由」が子どもたちの目の前で押しつぶされている。
国や社会を愛情を持ちながら支える責務を国民に課そうとする改憲の主張がある。憲法という
法規範にまで心の規制を盛りこみ、逆に市民の側に要求しようとする。
日本を含めた近代が前提としてきた、権力を制限して個人の自由を守るという立憲主義の考え
方とは全く正反対のことが起きているのである。
また、小泉氏の言動から、公権力を持つ人々が心のままに行動する「公の私化」が日本社会で
進んでいるのではないかという危惧(きぐ)を覚える。
ライブドア事件などでも明らかになったように、「官から民へ」というスローガンの下、実は
「公」から「私」へ、つまり公共的なものの価値をおとしめ、私益が優先されるという流れが経
済の領域で進んでいる。
総理大臣は、日本国というまとまりをもった公共社会の意思を内外に伝達する一番目につく立
場にある。自らの言動に対する国際社会の評価を含め、様々なことを考えてメッセージを発すべ
きなのに、言動に感情や情緒といった心の問題を持ち込むのは、「公の私化」が政治の領域で始
まっていることの表れだろう。
かつては権力者の心の自由のままに、権力を持たぬ者の自由は切り捨て御免だった。王侯貴族
の所有物だった政治が公共の手に移ったのが、近代であったはずだ。その前提が失われようとし
ているのだろうか。 (談)
--------------------
誤字脱字などありましたら、お詫びいたします。