>>33 つづき
主張より「ファクト」
新聞は絶対的に信頼できるニュースメディア、という幻想が崩れたのは、
この、4、5年ではないでしょうか。インターネットの普及で、いままでになかった
新聞を読み比べる体験を、誰もが簡単にできるようになったからです。
たとえば、最近の小泉首相の靖国神社参拝をめぐる訴訟でも、同じ判決から出たはずの
記事が見出しも含めてかなり違う。どれが一番正確に伝えているのかは読者にわからない。
新聞は正確との幻想は、一家に一紙しかなかった読者の側が、疑う材料を持っていなかった
だけの話です。
それでも新聞社が優れているのはファクトを集める能力だともいます。考えてみれば、
面白い話を聞いただけで、必ずしもアウトプットしなくても食べていける「記者」という
職業があるのは驚きです。
だから、新聞に求めるのはファクトを集める作業に特化してほしいということ。
社説のように見解を述べるとか、ある事象の分析をするとかは求めない。新聞が主張を
始めると、主張と異なる事実を見なかったことにしようとしてしまう恐れがあるからです。
若い世代が新聞を読まなくなったのは、日々生きていくための糧にならないから。
正直、イラクがどうなろうと、自動車会社の社長がだれに代わろうと、自分の生活を
豊かにはしてくれない。逆に、新聞を読まなくても、生きていくのに困らない。
勝ち組・負け組という言い方に象徴されるように、いまの日本社会は階層格差が
広がっている。なのに同じ情報を提供していればいい、これぐらいは知っておいてほしい
という考え方はメディアとして間違っている。
新聞の復権は、新聞がなくては困るという幻想をもう一回、植えつけ直せるかどうかに
かかっている。たとえば、携帯電話なんて、本当に必要があるのかどうかもわからないのに、
いつの間にかみんな持っている。
その場合、信頼という要素は大きいものではない。人が情報にお金を出すのは、ひたすら
面白いとか、ユニークな思想だとか、読まなければ確実に損をするとか、いろいろある。
読者が手に取る必然性とは何かを、真剣に考えたほうがいい。