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文責・名無しさん:
問題はこの後である。職場に戻ったぼくたちを待っていたのは、厳重な箝口令
だった。現職の雑誌編集長が自殺したことがスキャンダルになるのを出版局長
はじめ上層部が恐れるのは、この会社の社風として今さら驚きもしなかった。
ぼくが驚愕したのは、出版局の同僚が、まったく誰も、例外なくこの悲劇を
話題にすらしなかったことである。しかも、誰が命じたわけでもないのに、
こうなるのだ(社外には話すなと箝口令が敷かれたが、社内で話すなとは
誰も命じていない)。まったく完璧に静かだった。
いやしくも同僚、それも現役の編集長が激務のさなかに自ら命を絶ったので
ある。一人の人間が死んだのである。これは、自分たちの仕事環境のどまん中
で起きた惨事なのだ。それに完全に無関係と言い切れる人はいないはずだ。
ぼくは彼の自殺を「誰かのせい」にしたいのではない。自殺の原因が完全に
プライベートなことだって、ありうる。が、これほどの重大事が起きたこと
を真摯に受け止めるなら、命の重みを誠実に考えるなら、問わずにはいられ
ないはずではないのか。「なぜこんなことが起きたのだ」と。人間なら、
記者でなくても問わずにはいられないはずではないのか。「我々の仕事環境
の中に、何か重大な問題があったのではないか」と。
この問いを、誰も発しなかった。葬儀の翌日から誰もが、また黙々と仕事に
戻ってもう話題にもしなかった。アエラや週刊朝日や書籍編集の同僚が、
説明を求めて出版局長室に押しかけたなどという話も聞かない。説明さえ
求めずに、誰もが納得してしまったのだろうか。ぼくは暗澹たる思いに
沈んだ。ぼくはそれまで、朝日新聞社をイヤな組織だと思ったり、居心地が
悪いと思ったことはは何度もあったが、「怖い」とまでは思わなかった。
が、この出来事を境に、この上司や同僚たちの無関心と無気力と無作為が
文字通り怖くなった。病んでいるとさえ思った。ここでは、人間が人間
として必要な要件が、何かすっぽりと抜け落ちてしまっているのだ。記者
としての素質を云々する必要なんて、ない。非人間的だと思った。身近な
人間の死を無視して平気でいられるようなインセンシティブ(無神経)な
人間が、この社会を、世界を、人間を取材して書こうなんて、傲慢にも
ほどがある。