フジサンケイグループはどうやって出来たのか?

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12文責・名無しさん
ニッポン放送の経営権
ニッポン放送は財界のマスコミ対策として設立され、当時財界の「青年将校」と呼ばれた経団連専務
理事の鹿内信隆が実務の中心となって開局したラジオ局である。
その後、テレビ免許申請を巡って各方面と競合するが、鹿内は同じ財界系であった文化放送の水野成夫
社長と協議して、改めて共同で免許を申請した。これが現在のフジテレビジョンである。ニッポン放送
は文化放送と共にフジテレビへ資本と人材を送り込んで開局させた、まさにフジテレビの生みの親である。
このフジテレビ開局と前後して、たまたま東京進出後経営が悪化した大阪発祥の産経新聞社を水野が
引き受ける事となり、鹿内も役員に就任した。水野が仕事の中心を産経に主軸を置くと、鹿内は後を
受けるかの如くフジに主軸を移した。1968年水野は産経新聞社の経営に失敗して体調が悪化。鹿内は
産経新聞社に乗り込み、正式にフジサンケイグループを掌握した。1976年産経新聞社は東京急行電鉄と
共に文化放送の株式を旺文社へ売却。これで鹿内は自らが筆頭株主となるニッポン放送を頂点とした
フジサンケイグループの図式を完成させ、名実共にこれを支配した。
1985年、鹿内はセミリタイヤを敢行。その息子鹿内春雄がグループを引き継いだこの一件は、当時
「世襲」と呼ばれ周囲の注目を集めた。しかし1988年、春雄が43歳で早逝。信隆は議長に復帰すると
同時に、春雄と同年代で日本興業銀行行員であった婿養子・鹿内宏明を議長代行に置いた。1990年信隆
逝去後に宏明は議長に昇進。カリスマ不在になり鹿内家への求心力が弱まっていたが、グループの結束
力強化を図るという名目で1991年2月にグループの最高意思決定機関である「株式会社フジサンケイ
コーポレーション」を設立。宏明が会長兼社長に就くとともにグループの主幹四社(ニッポン放送、
フジテレビジョン、産経新聞社、サンケイビル)の会長職も兼務。また主幹四社の社長を同社の役員に
置きグループの権力を掌握した。