やっちゃった!今日の朝日のドキュン記事 その56

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1月25日朝日新聞夕刊12面文化   文芸時評  島田雅彦 作家

 他者の目  韓流ブームと在日文学 国家と融合しない私

 首相の靖国参拝や歴史教科書問題などの影響で政治の上では日中関係
は冷え切り、日韓関係も良好とはいえない状態にあるが、韓流ブームを眺め
る限り、文化の相互浸透は大いに進んでいるように見える。文化貿易におい
ては、これまで日本の輸出超過だったが、韓国映画やドラマの大ブレークに
よって、イーブンになった感がある。
 そもそも今日の韓流ブームを招いたのは誰か?それは天皇と金大中前大
統領である、といったら、意外に思われるだろうか?天皇が2001年の
誕生日会見で語った天皇家と百済の「ゆかり発言」にしろ、金大中の日本の
大衆文化開放政策にしろ、ワールドカップ・サッカーの共催にしろ、両国
が歩み寄る局面は幾度もあったが、反日をナショナリズムの根拠にする韓国
の右翼や戦前の日帝支配を正当化する日本のウヨクがそれに水を差すという
構図だった。しかし、民間外交の旗手ヨン様の来日はノ・ムヒョン大統領の
来日よりもはるかに歓迎されたことからも明らかなように、文化の影響力は
政治のそれをはるかに凌ぐ。政治は日韓の軋轢という幻想を必要とし、文化
は日韓の融和を進め、実利を得る。政治は理念と建前、文化は生きられた経
験である。だから、政治家同士は理解し合えず、市民は文化を通じて共感を
作り出そうとする。

    □     ◇     □

 日韓文化の相互浸透が進む時、忘れてはならないのは在日文学の現在であ
る。日本語を使い、日本文化にまみれながら、日本を常に批評し、独自のポ
ジションを築いてきた隣人は軋轢と融和のあいだを揺れる日韓関係、日朝関
係そのものを体現してきたからだ。彼らはいくら日本に同化しようとも、日
本に守れらているわけではない。たとえば、ワールドカップ・サッカーアジ
ア最終予選に北朝鮮代表として出場する在日のJリーグ選手二人の心の内な
どは、彼らの同朋にしか語り得ないだろう。在日作家が書く私小説や青春小
説は、当然あいだに生きる者の複雑な心の内を反映する。彼らが書く小説に
は必ず他者の目が入る。日本人を批評する韓国人の目、自分たちを観察する
日本人の目である。
 『GO』の作者はデビュー作を越える作品を書けていないが、玄月は精力
的に在日の家族、在日の友人のありのままを、肉が擦れ合う生々しさととも
に描き続けている。「異物」(群像)の作中を騒々しく跳ね回る面々はおた
く、ニート、引き篭もりなどとは無縁な、ほとんど格闘技やVシネマに通じる
世界に生きている。かつて中上健次は崩壊した路地の面影をソウルに見い
だしたが、そのソウルもグローバル化した。それでも大阪にはまだ猥雑さの中
で育まれる肉の絆が残る。
 ところで、韓流と日式は恋愛や友情の流儀は違うが、その違いはつまると
ころ兵役の有無に由来する。兵役は韓国人に青春や恋愛の中断をもたらすの
で、そこに痛切な物語が生まれる。民主化運動や南北対立などの政治が私生
活に影を落としてきたので、韓流の人生は気楽な日式の人生のようにはいか
ない。在日の文学はそうした日韓のギャップを異物感として描き出す。玄月
は、韓流の大きな物語を紡ぐでもなく、日式の私小説を模倣するでもなく、そ
のあいだで日本語自体にも異物感をもたらすのである。あいだに生き、書く
者だけが言語を、さらには国家を変質させることができる。ここには国家と
決して融合しない「私」がある。
 
    □     ◇     □

 鹿島田真希の「六〇〇〇度の愛」(新潮)は前作の「白バラ四姉妹殺人事
件」よりさらに内省を深め、スタイルも一新させ、進境著しい。自殺した兄
への思い、母との関係、キリスト教の受難、原爆投下の惨状を交錯させながら、
長崎を舞台にロシア人と日本人の混血の青年との出会いと交わりを語るのだ
が、地の文に会話と心理描写を溶かし込み、まさに「河のように」書いてい
る。その言葉の河の中では青年が兄になり、長崎になり、そして祈りにな
る。マルグリット・デュラスの『ラマン』や『北の愛人』を思い出せる、
不安定な現在形の語りは過去の自分と現在の自分の対話になってもいる。
 この小説は恋愛小説のように書かれているが、欲望の解放としての恋愛と
は程遠い。確かに恋愛は自分のトラウマを映し出す鏡にもなる。「私の言葉
には本質がない。ただ断片的な思い出話があるだけだ。時間軸もない。私の
頭の中にページがばらばらになった一冊の本がある」と鹿島田は書く。だが、
その本のページを綴じ合わせようとしても、自殺した兄と自分の意識の中の
兄のギャップ、実際の母との関係とそれを語る言葉とのずれを埋めることは
できない。いくら厳粛なミサを行っても、死者は蘇ったりしないように。
 それでも彼女はミサとしての小説を書き続ける。「だけど私はいつか小説
を書いてみようと思う。私と兄さんと母。そんな自己と他者によって構成さ
れた共同体について。私はそれを女と男の恋物語として書くだろう。いつ
か、河のように。目的は喪失であろうか。そう思わせるぐらい淀みなく。自
身が透明になるまで、言葉を消耗するだろう」。鹿島田は自作をこう結ぶ。
 今後、彼女は小説の遠い先祖である神話の世界にこそ踏む込むべきであろ
う。神話は理不尽にして過酷な生の現実を受け容れる為の知恵の集大成で
あり、そこには女と男の物語の原型があるから。

    □     ◇     □

 今回の芥川賞は十年選手の阿部和重に授けられた。この前は一作しか書い
ていない新人に気前よく賞を出し、今回は罪滅ぼしめいたことをしながら、
 選考委員たちは賞自体の延命を図っているようだ。かつて六回も落選させら
れ、いまだに「芥川賞取れるといいですね」などといわれる私は苛立ちを笑
顔で隠すのに苦労する。不幸な作家を増やさず、不遜な才能を発掘するため
にも、また小説の現在にまるで対応していない選考委員に引退してもらうた
めにも、定年制の導入を真剣に考えてはどうか。余談ながら、過去の栄光を
誇示する「芥川賞作家」という呼び方だが、現在の文業では勝負できないことを
隠すためにも使われる。残念!