まずは上の写真を見ていただこう。
前列に並ぶのは、左から中曽根康弘通産相、三木武夫副総理、田中角栄首相、
福田赳夫行管長長官、大平正芳外相。かの「三角大福中」である。
1972年12月に発足した第2次田中内閣。この5人が閣内にそろったのは、
後にも先にもこの時しかない。
自民党は今年、結党50年を迎える。1955年11月の保守合同で誕生した
この党で、5人はやがて派閥を率いる実力者へと階段を上り、党の屋台骨を
支える存在となった。時に手を結び、あるいは宿敵として争い、順々に、
そして全員が首相となった。
ロッキード事件、三木おろし、四十日抗争、ハプニング解散……。怨念と
権力欲が渦巻くすさまじい時代だったが、しかし5人には豊富な政治経験と
理念があり、権力の座を目指すエネルギーもそこから生まれていた。
それも、とうに昔の話となった。いま派閥抗争がないのはいいとして、誰が
政権を目指しているのやら、小泉後の争いがさっぱり見えないのはどういうことか。
「人材は多士済々」と首相は言うが、果たしてそうだろうか。
もとより二世ばやりの時代だ。苦労知らずの戦後世代とか、年功序列の温室育ちとか、
とにかく政治家のひ弱さが語られる。だが、何にもまして明らかなのは、
過去の実力者のように重要ポストをいくつも歴任した政治家が、いまは全くいないという事実だ。
総理・総裁になるために必要な経歴として、四つの職を挙げたのは田中元首相だった。
自民党三役のうち幹事長を含む二つ。内閣では蔵相、外相、通産相のうち二つというのである。
最高権力者として国政をつかさどるには、財政・外交・経済、それに選挙や国会対策なども
取り仕切り、政治の核心を押さえておくことが必要だと言いたかったのだろう。
なるほど三角大福中は、ほぼ完璧にこの条件を満たしていた。例外は中曽根氏が
3閣僚のうち通産相しかしなかったことだけで、党三役や閣僚歴はみな多彩だった。
ただ大臣をしただけではない。田中通産相はもつれた日米繊維交渉をまとめたし、
福田外相は沖縄返還交渉、大平外相は日中国交正常化に当たった。蔵相としても、
それぞれ財政に個性を発揮したものだ。
5人に続く「安竹宮」も、政治歴は華やか。中曽根内閣で外相を4年近く務めた
安部晋太郎氏は「安部外交」の名を残し、やはり長く蔵相を続けた竹下登氏は
プラザ合意などに名をとどめる。閣僚歴の豊かさなら、宮沢喜一氏の右に出る者はいない。
では、いま首相候補に名の挙がる面々はどうか。平沼赳夫、麻生太郎、与謝野馨、
高村正彦、谷垣禎一、町村信孝、福田康夫といった顔ぶれを見回しても、
まず幹事長経験者がいない。
幹事長OBでは、実力者だった加藤紘一、山崎拓両氏が首相レースから脱落。
古賀誠氏やいまの武部勤氏はレースに参加しそうにない。
注目の的は選挙向けに幹事長を務めた人気の安部晋三氏だが、こちらは閣僚歴がゼロだ。
その点は財務省、外相、経産相や官房長官、総務相などをした前述の面々がずっと
先行しているのだが、彼らとて、こうした主要閣僚を二つ以上経験してはいない。
つまり、田中流で考えるなら、だれも「首相の条件」にはほど遠いのだ。
なぜ、こんなことになったのか。
党の分裂による人材流出や、派閥による人材育成方式の崩壊もあるだろう。
だが、最近の閣僚選びからは、次のような事情も浮かんでくる。
いまでこそ谷垣財務相、町村外相という顔ぶれだが、小渕、森、小泉の3内閣で
宮沢喜一、塩川正十郎の両長老が5年余り財務省の職にあった。
外相は小泉内閣で田中真紀子氏の起用が失敗したあと、民間人の川口順子氏が
2年半――。イラク戦争や北朝鮮の難題が重なったこの大事な時期に、である。
つまり、この間は財務省も外相も明日の首相を育てるポストにならなかったのだ。
小泉首相は女性と民間人の登用が好きである。厄介だった金融政策を学者出身の
竹中平蔵氏(現参院議員)に委ね、いままた最大焦点の郵政民営化でも担当相は竹中氏だ。
長老の起用にせよ、民間人登用にせよ、それ自体が自民党の人材難を物語るのだが、
こうした人事がまた実力政治家づくりの機会を失わせてしまう。皮肉な悪循環ではないか。
さて小泉氏はといえば、四つのポストに一つもついていなかった。なるほど、大胆だが
何かと行き当たりばったりな小泉政治の危うさは、そのことと無縁ではあるまい。
いまだ大変革の時代。過去の経歴など邪魔になる、と小泉氏は言うに違いない。
だが、それにしても……である。しがらみがないほどよいのなら、野党に政権を渡す手もあろう。
長期政権の党にしては昨今、指導者づくりをおろそかにしすぎなかったか。
結党50年、自民党の危機を表す一断面である。