中日新聞・東京新聞こそ電波!! その16

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245甲斐一政(1)
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平成16年8月15日 中日新聞朝刊(3)

時代を読む
  本紙客員、元愛知県副知事 甲斐一政

記憶から遠ざかる8月15日

 今年も終戦の日が来た。この日を鮮明に記憶している日本人は、辛うじて七十歳以上の高齢者だけだろう。
 いまこの国は平和であり、豊かさを享受している。しかし日本人のほとんどは、この平和と豊かさがどんな歴史を経てもた
らされたか、考えなくなった。いや考えたくないと言った方が正しいのかもしれない。
 それは、太平洋戦争にまつわる話は、どこをとっても暗く、悲しく、そしてつらいからだ。
 同時に歴史教科書のどれを見ても、日本はアジアの国を侵略し、住民を巻き添えにした話で終始している。そんなとき、ふと
救われるような話に出くわした。
 それは日本が開戦から三年、アメリカの圧倒的な物量と航空戦力の前に、力尽きる前年の一九四四年九月の出来事である。
 日本の南三千`bにあって、百を超える島からなる国、バラオのペリリュー島。この島を守る一万人余の日本軍は、ミッド
ウエー海戦を墳にして制空権を失い、食料も弾薬も補給を断たれ、米軍の来襲があれば玉砕を覚悟せざるを得なくなっていた。
 その時、指揮官の中川州男大佐が最初に採った行動は、島民を戦火に巻き込まず安全な島に移すことであった。運命を共に
したいと言う十人を除いて、日本軍は全島民(二万八千人)を無事に近くの島バベルダオーブ島に移すことに成功した。日本
軍はそれから戦車壕と洞くつからなるる堅牢な陣地を構築し、押し寄せた十万の米軍を迎え撃ち、九月十五日から十一月二十
四日までの二カ月余、すさまじい戦闘の後、遂に玉砕して果てた
246甲斐一政(2):04/08/15 13:36 ID:+4YJKdrT
 戦闘が終わり、帰島した島民が目にしたのは、全島に散った日本軍と米軍の累々たる屍でぜあったという。バラオの人々は
今も島民を戦火から救った日本軍を忘れずペリリュー桜をたたえる歌″と題する日本語の歌を歌い継いでいるという。
 こんな話は多くの戦場で住民が犠牲になったのに比べれば、僅かかもしれないが、それでも太平洋の島々にはまだ幾つも住
民を救った話が存在していると思う。
 この大戦にもうひとつの救いがあるのだとすれば、やはりバラオの人々と同じように他のアジアの人々も私たちが思ってい
るよりは、日本に対する信頼と親しみを持っていることではないかと思う。それは結果としてではあるが、この大戦がアジア
全域に展開していた欧米の植民地政策を終わらせたことにある。
 二世紀にも及ぶイギリスの植民地であったインドが1947年にイギリス軍の攻撃を凌いで独立を勝ち取ったとき、インド国民
寧の主席弁護人デサイ博士は言っている。
 「インドに独立の契機を与えたのは、まさしく日本である」と。
この思いは中国、韓国を除いて、タイもインドネシアもマレーシアもベトナムも同じであって、それは無念の思いで南太平洋
から大陸に至る広大な戦場に散った二百三十万の将兵が私たちに残してくれた偉大な遺産と言えるのではあるまいか。
 戦争は二度と起こしてはならない。どれだけ悲しい犠牲が繰り広げられたかは、サイパン、沖縄だけでも二十万を超える住
民の非業な死を思い出せば分かる。
 私たちはいま、この大戦は本当に避けられなかったものであったか、もう一度見つめる必要がある。そしてまた、戦後六十
年を経た今、アメリカが占領政策として日本人から民族としての誇りを奪うために採った歴史観は早く改める必要がある。
 思い上がってはいけないが、明治以降アジアに吹き荒れた欧米の植民地政策をひとり退け、南下するロシアの侵略を砕き、
独立を守り通したこの国に、若者たちは誇りを取り戻し、自信を持って臭っ直ぐ歩き出す時が到来したと考える。