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文責・名無しさん:
徳川時代のような社会では大名であること、名主であることから、その人間がいかにふるまうかという型がおのずからきまってきます。
したがって、こういう社会でコミュニケーションが成り立つためには、相手が何者であるのか、つまり侍か百姓か町人かが外部的に識別
されることが第一の要件となっております。服装、身なり、言葉づかいなどで一見して相手の身分がわからなければ、どういう作法で相手に
対してよいか見当がつかないからです。しかし逆にいえば、こういう社会では、人々の集まりで相互に何者であるかが判明していれば、―
また事実そこでは未知の者の集会はまずまずあまり見られないのですがーべつだん討議の手続きやルールを作らなくても、また「会議の精神」
を養わなくても、「らしく」の道徳にしたがって話し合いはおのずから軌道にのるわけなのです。
いいかえるならば、アカの他人の間のモラルというものは、ここではあまり発達しないし、発達する必要もない。いわゆる公共道徳、
パブリックな道徳といわれているものは、このアカの他人同士の道徳のことです。
なるほど、丸山真男が「日本の思想」の中で指摘しているように、2ちゃんねらーって、時代錯誤も甚だしい
イナカッペってことになるな(藁