☆朝夕の娯楽★天声人語&素粒子。27年テーゼ★☆

このエントリーをはてなブックマークに追加
960文責・名無しさん
■《天声人語》
 1904年の2月8日、日本軍は朝鮮半島に上陸した。2日後に宣戦布告した。日露
戦争の始まりだ。
 国論は開戦に傾いていた。18歳の石川啄木は岩手日報にこう書く。「今や挙国翕
然(きふぜん)として、民(たみ)百万、北天を指さして等しく戦呼を上げて居る。戦の
為めの戦ではない。正義の為、文明の為、平和の為、終局の理想の為めに戦ふの
である」。朝日新聞も対露強硬論を主張した。

 非戦を掲げる幸徳秋水らの平民新聞にはこうある。「不忠と呼ぶ可也(かなり)、
国賊と呼ぶ可也、若(も)し戦争に謳歌(おうか)せず、軍人に阿諛(あゆ)せざるを
以(もつ)て、不忠と名(なづ)くべくんば、我等(われら)は甘んじて不忠たらん」(『幸
徳秋水』論創社)

 戦争のさなか、トルストイが英タイムズ紙に長文の日露戦争批判を寄稿した。朝
日新聞と平民新聞に翻訳が載る。「戦争は又もや起れり、何人(なんぴと)にも無
用無益なる疾苦此(ここ)に再びし(略)人類一般の愚妄残忍亦茲(またここ)に再
びす」

 7年後、啄木は訳文をペンで筆写し、記す。「予も亦無雑作に戦争を是認し、且つ
好む『日本人』の一人であつた」「今や日本の海軍は更に日米戦争の為に準備せ
られてゐる」(『石川啄木全集』筑摩書房)

 群馬県立近代美術館(高崎市)の「戦争と美術」展で「日露戦争軍人木像」を見
た(15日まで)。背丈50センチほどの軍服姿の像162体が、並んで立っている。
近郷出身の死者の慰霊として、写真などを参考に作られ、寺に収蔵された。

 周りを巡る。照明の具合で、ガラスの入った目が、時に光る。その小さな明滅は、
1世紀のかなたから届いた無言の訴えのようだった。