中日新聞・東京新聞こそ電波!! その10

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495文責・名無しさん
夕刊5面 文化欄
在日韓国人の大学教授による正論が載っててビックリ。

「NOと言える日本、NOと言える韓国」
”自国アイデンティティーの確立こそ”

 日韓併合をめぐる石原都知事の発言が話題になったが、1995年に行われた高麗大学新聞放送研の
調査によると、韓国人の過半数は植民地統治の責任が韓国にもあると考えている。
「韓国に全面的に責任あり」11.4%、「韓国にも責任あり」55.6%、
「日本に全面的に責任あり」29.2%である。
 この共同責任の感覚を育むことが、韓国人にとって重要と私は考えるが、
実際にはそれは封じ込められる傾向にある。
近代史について、たとえば韓国の歴史教科書が語るのは日本帝国主義の蛮行の歴史であり、
日本は無慈悲で残忍な侵略者、史上類例のない暴圧者として描写され、
韓国人の側に協力者がいたのだとか、大部分の韓国人は日本の統治に従属的に参加していたのだ
というようなことは触れられない。
 韓国の教科書やメディアが刷り込もうとしているのは、共同責任の感覚というよりは
被害者の感覚である。だが、被害者意識は自国の歴史に責任を持たない。
それは韓国人に日本に対する道徳的優越性の感覚を与えるかもしれないが、
自己責任や自己検討の感覚から自らを遠ざけてしまうのである。
496495:03/12/15 20:57 ID:ehI2HEjK
 一方の日本の側に見てとれるのは、朝鮮統治についてのさまざまな議論が展開されるという状況で、
一方に過去を弁明しようとする者がいれば、他方にはそれを弾劾する者がいる。
これは民主主義国家としては当たり前の風景であるが、当たり前でないのは、
弁明派と弾劾派の間にきれいな棲み分けがあるということで、両者はそれぞれの仲間内で
議論としているだけのことで、国民的な合意が形成されているわけではない。
 にもかかわらず、かつて日本政府は「韓国・中国を含むアジアの国々の国民」に対する
反省と謝罪を表明してしまった。82年のあの教科書問題の推移の過程で、
当時の宮沢官房長官が発表した政府見解がそれで、国家がその加害者性を認めると言う重大な行為を、
宮沢氏は何か即興劇のような身軽さでやってしまったのである。
 日韓には容易に一致することのできない歴史認識の問題がある。
たとえば日本の朝鮮統治は当時の国際法秩序下で「合法的」なものであったのか否か。
かつての朝鮮統治を今日の観点から「反省する」のはいい。だが日韓併合そのものは、
合法的なものであったのだというのが日本政府の従来の立場であり、それはおそらくは
日本人の多数意見でもあるだろう。だとしたら、謝罪を表明するとしても、
その「合法性」に関しては譲らないという態度が表明されてしかるべきであるが、
「政府見解」にはそれが欠けていたのである。
 「政府見解」はその後の日韓関係を強く規定した。82年以後の日本側にしばしば見てとれるのは、
道徳的優越性の立場にある韓国の顔色をうかがいながら行動するという態度で、
それを無視して、「日韓併合は韓国側にも責任がある」などと発言した大臣は罷免された。
日韓に期待されているのは「加害者」と「被害者」、「贖罪者」と「糾弾者」の役割であるが、
それは98年、金大中大統領が来日したときの日韓共同宣言で再確認され、今日に至っているのである。
497495:03/12/15 20:57 ID:ehI2HEjK
 日韓併合をめぐる石原知事の発言がこうした日韓関係に対する「ノー」の感情と
無縁のものでないのは明らかであろう。氏には確かに言葉の管理能力に問題がある。
しかし失言にばかり注目して、わいわい騒いでいるようでは日本人はますます幼稚になってしまう。
失礼。私にも失言癖があるようである。それにしても、石原氏にもし失言癖がなかったら、
それでも彼は「ノーと言える日本人」でいられるのだろうか。
そんなことより、被害者意識を乗り越えるような自国アイデンティティーを、
韓国人はいつになったら編み出すことができるのだろうか。

【宮沢談話】1982年8月、日本の歴史教科書の検定問題をめぐり、
韓国、中国から抗議を受けた日本政府が「日本政府及び日本国民は、過去において、
我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えた」
などとする宮沢喜一官房長官(当時)の談話を発表、事態の収拾に当たった。

(筆者)鄭 大均 てい・たいきん=東京都立大学人文学部教授。
1948年岩手県生まれ。専門は日韓関係、集団アイデンティティー。
著書に『韓国のイメージ』『日本のイメージ』『在日韓国人の終焉』『韓国のナショナリズム』など。