★★ここが変だよ 筑紫哲也 Part112★★

このエントリーをはてなブックマークに追加
859      
拡大版多事争論(3)
そこで二つ目の話です。ある哲学者が言っていた話なのですけれども、小学校で子供たちが登校したときに
最初の授業に先生がこうやって黒板に○を書きます。そして生徒たちに紙をみんな与えて、そこでそれを
同じように書きなさいと言う、そういう授業であります。そして多くの子供たちがずっと当然紙に
こういう○を書いたのでありますけれども、一人だけいつまでもできない子がいました。
いつまで経っても書き上がらない、何をしているのだろうと思って見たら、その子はこういう絵(●)を
描いていたわけです。つまり先生が黒い板の上に白いチョークでものを描いたのですから、その通りにしなきゃいけないと
思って、その白抜きを残してここを塗りつぶす作業というものをやっていた。で、今私たちが向かっている現実と
いうのは勝ち組と負け組という言葉があります。そうでなくても私たちの戦後というのは
たとえばこの授業で言えば最も正確に早くこの丸をこっちの前の紙のように描けた子供が一番、
二番目に描けた子が二番、そういう形で勝ち組負け組というものが決まっていくという社会を作ってきました。
そのことがさらに今は厳しく行われているわけですけれども、それではその一方で脅迫する現実ということばを
私たちは使いましたが、子供たち、あるいは若者たちに要求されているのはもっと自己責任を持て、
あるいは自立しろ、個性を持てということであります。
しかしそのことを言っている反面で、こういうものを描く子供が認められないとすればその個性というのは何なのでしょうか。
それは本当の個性とはいえないのではないかと思います。もしこの子の個性を認めるという社会であるならば
それぞれが色んな生き方をすることが認められるわけですけれども現実にはそうはなっていない、 その中で色んなことが脅迫的に言われているというのが今生きている私たちではないかと思います。