847 :
文責・名無しさん:
拡大版多事争論(1)
58年目を迎えました終戦記念日の特集、どうご覧いただいたでしょうか。
やや、相当に不安げだという感想もお有りじゃないかと思います。
さて、ここからは多事争論なのですけれども、
実はテレビのコラム欄を目指しましたこの欄、内容、発足したときには90秒、そして今では10秒削られて
80秒で何事かを語っております。ところが今日は拡大版でこれからずっと私がお話申し上げるわけですが。
そういうときに日本の伝統的な文化でよくやる手は三題噺。三つのテーマというものをお話をするということになります。
さて、一番目ですが。毎年この日に特集をやっておりますけれども、その中でも最も大きな
反響を呼んだのは6年前の特集でした。まずこれをご覧ください。
「僕はどうしても飛びたくてしようがないのです。」
「あと発言してない人。」
「一人の人間として考えてみたときに人を殺してはいけない。」
「人間て、生きる権利が全員にあるんですよ。」
「てゆうか、そんなに何で人を殺してはいけないの。(リピート:何で人を殺してはいけないの。)」
この発言がでたときに、番組とこの発言者に対しては大変な非難が起きました。
そして、そんなこと、人を殺してはいけないのは当たり前じゃないかというのが
その大方の反論だったろうと思います。しかしながら、今年私たちの国は
ある条件の下では人を殺していいという国になりました。
848 :
文責・名無しさん:03/08/16 17:30 ID:XaoAKPeM
拡大版多事争論(2)
もちろん、人を殺していい条件というのは何かといえば言うまでもなく
戦争であります。平時に人を一人殺せば犯罪者だけども戦争中に百人を殺せば
英雄になるという言葉がありますが、そう言う状況が可能なといいますか、
そう言うことがあり得る状態に私たちの国は今踏み込もうとしております。
それだけではありません。戦後58年経ちますけれども、戦後、あるいは
過去というものを否定しようという動きというものが大きく強まっております。
それが今の状況だろうと思います。
大雑把に言って三つのものが否定されようとしております。一つは戦後民主主義と呼ばれたものであります。
そう言う建前やきれい事は通らないというような意見が非常に強くなっております。
元々戦後民主主義というものが本当に中身があったかどうかは疑問でありますけれども、
それがますますただの制度としての民主主義になろうとしております。
それはたとえばイラクに自衛隊を派遣するときの議論、あるいは政治家がそれを色んなことに
巡ってする発言を見れば明らかでありまして、中身というのはますますなくなっていき、
そして乱暴になり、ぶっちゃけた言葉が一種の爽快感をもって受け止められている、そういう時代に入りました。
それと絡むのですけれども憲法というものもますます否定の方向に行っております。
国の一番基本の法律をこんなに軽んずる国は、あるいはそういう人たちは怖いという国際的な声が
出ているほどこの憲法に対する軽視というものが強まっております。
そして三つ目はもちろんそれにつながっての話でありますが、平和主義であります。
一国平和主義などというレッテルがつけられて、平和でいようとすることがあたかも悪いことであるかのごとく
いわれるようになりました。平和という言葉は決してもう大っぴら言うことがが憚られるという状況が
すぐ近づいて来かねない、そういう中に私たちはいます。
そうやって戦後の過去を否定したその先に私たちはどういう現実に向かおうとしているのか。
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文責・名無しさん:03/08/16 17:30 ID:XaoAKPeM
拡大版多事争論(3)
そこで二つ目の話です。ある哲学者が言っていた話なのですけれども、小学校で子供たちが登校したときに
最初の授業に先生がこうやって黒板に○を書きます。そして生徒たちに紙をみんな与えて、そこでそれを
同じように書きなさいと言う、そういう授業であります。そして多くの子供たちがずっと当然紙に
こういう○を書いたのでありますけれども、一人だけいつまでもできない子がいました。
いつまで経っても書き上がらない、何をしているのだろうと思って見たら、その子はこういう絵(●)を
描いていたわけです。つまり先生が黒い板の上に白いチョークでものを描いたのですから、その通りにしなきゃいけないと
思って、その白抜きを残してここを塗りつぶす作業というものをやっていた。で、今私たちが向かっている現実と
いうのは勝ち組と負け組という言葉があります。そうでなくても私たちの戦後というのは
たとえばこの授業で言えば最も正確に早くこの丸をこっちの前の紙のように描けた子供が一番、
二番目に描けた子が二番、そういう形で勝ち組負け組というものが決まっていくという社会を作ってきました。
そのことがさらに今は厳しく行われているわけですけれども、それではその一方で脅迫する現実ということばを
私たちは使いましたが、子供たち、あるいは若者たちに要求されているのはもっと自己責任を持て、
あるいは自立しろ、個性を持てということであります。
しかしそのことを言っている反面で、こういうものを描く子供が認められないとすればその個性というのは何なのでしょうか。
それは本当の個性とはいえないのではないかと思います。もしこの子の個性を認めるという社会であるならば
それぞれが色んな生き方をすることが認められるわけですけれども現実にはそうはなっていない、
その中で色んなことが脅迫的に言われているというのが今生きている私たちではないかと思います。