彼等は一様に、真冬でもポロポロの服を着て、痩せて目だけ光っていた。そんな
虜囚のような群れが、暗く危険な炭鉱の坑道に送り込まれるのを見たことがある。
さらに新聞店をやっていた親戚の広い庭の下が崖になり、その川沿いに朝鮮人飯
場が並んでいた。そこでは朝鮮人たちを労働にかりたてるため、ご飯も立ったまま
食べさせて、働きの悪い奴は日本人の棒頭に叩かれて泣いていたと、飯場を覗き見
てきた少年がいっていた。
事実、わたしはその少年に手引きされ、恐いもの見たさで飯場に近づき、朝鮮人
が半死半生のリンチにあっているのを目撃した。
叔父が、崖の下へ降りてはいけない、といいながら、脱走してきた一人に、餅を
あげたのを見たことがあるが、その男は、「アイゴー、アイゴー」といいながら、
手を合わせてむしゃぶりついていた。
以上は、わたしが小学一、二年生のとき、一瞬、垣間見た地獄絵である。
この結果、どれほどの朝鮮人が行方不明になって殺されたかわからないが、こう
いう過去があったことはまぎれもない事実である。
そして当時、日本は植民地であった朝鮮を、日本領土として地図の上で赤く塗り
つぶし、その人々に日本語を強制し、名前をすべて日本名に改名させ、天皇、皇后
両陛下の写真を毎日、拝ませたのである。 いいかえると、朝鮮の文化や風習を根
こそぎ、破壊したのである。
(渡辺淳一・週刊現代2002年10月12日号)