反日反米の過激派作家、辺見庸の精神のゆがみを語る

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213文責・名無しさん
(*全4ページにわたる長文です。ちびっとずつウプしていきます)

月刊紙「新聞労連」04年1月号
「直言」新春ワイド版 辺見庸さんに聞く
聞き手 明珍美紀(新聞労連中央執行委員長)

 へんみ・よう 1944年生まれ。70年、共同通信社入社。北京特派員、ハノイ支局長、編集委員などを経て96年、
退社。この間、78年、中国報道で日本新聞協会賞、91年、小説「自動起床装置」で芥川賞、94年、「もの食う人び
と」で講談社ノンフィクション賞。近著に「いま、抗暴のときに」など。03年4月から早稲田大客員教授。

 明珍 まず初めに、旅がお好きな辺見さんですが、最近、印象に残る風景は。
 辺見 イラクに行く予定が体調を崩して断念せざるを得なかったりして、あまり旅に出ていないのですが、昨年の
8月から9月にかけて韓国・ソウルの戦争記念館を訪れました。朝鮮戦争などの資料がかなり展示してあるんですけれ
ど、改めて朝鮮戦争の規模の大きさ、悲惨さ、あるいは歴史的な意義の大きさを思った。
 朝鮮戦争は日本の敗戦間もない1950年に起きた戦争ですが、400万人もが殺されたといわれる凄まじい戦争である
にもかかわらず、実はこの国で朝鮮戦争反対の本格的運動はほとんどなかった。距離的にすごく近くても、日本のメデ
ィアや新聞記者たちは、国家的利害を離れて他者の痛みを想像したり、他者の苦しみに関心を持つということがもとも
と下手というか、病的なまでの無関心をその伝統的体質にしているんじゃないかとハッと気がついた。報道だけでなく
文芸の世界もそうですが、どこか言説の卑劣さを思わずにいられませんでした。
 非常にテンポの早い世界情勢の推移のなかで、基礎的な歴史について我々はどんどん忘れていく。この国による植民
地支配の歴史についても、いまの若い新聞記者はあまり知らないですね。驚くほど不勉強ですよね。

(つづく)
214文責・名無しさん:04/02/19 19:09 ID:pZ4Qyvxl
(その2)

 明珍 そうした記者が集まるマスメディアですから問題は多い。
 辺見 マスメディアを語るときの問題点は、ジャーナリズム論とメディア論をごっちゃにしていること。ジャーナリ
ズム論というのは、ある種の心構え。難しい言葉で当為といいますが、記者はいかにあるべきかということが関わる領
域の話です。メディア論は、どちらかというと、もっと乾いたメディア機能の法則性とでも言いましょうか、市場原理
のなかでのメディアの法則性や国家とメディアの相関性を探ったり、あるいは社会や国家全体がメディア化したなかで、
人間の知覚がどう変容するのかといったことを、当為とは必ずしも関係なしに追究します。
 日本には心情論的かつ人生論的ジャーナリズム論はあっても、メディア論はひどく弱いですね。戦後一貫して言われ
ているのは、「新聞記者の心が良ければメディアは良くなる」式の薄っぺらな心情論。つまり心が正しければ報道が良
くなるというやつね。それは違うよ、と僕は思いますね。自己解析能力がなさすぎる。
 明珍 新聞労連も「新聞人の良心宣言」(97年)を出しているのですが…。
 辺見 新聞は別に正義の集団じゃないけど、さりとて悪党の集まりでもない。しかし、戦後約60年間、本当に耳にた
こができるくらいマスメディアは批判されているのに、そういうものが学習されて報道のあり方が修正されていくこと
はほとんどない。それはいったいなぜなんだと自問する必要がある。白分たちの新聞で、あれだけ有事法制賛成論を導
入しておいて、「記者の良心」なんて、何を言ってるんだよと思いますね。

(その3につづく)
215文責・名無しさん:04/02/19 20:09 ID:pZ4Qyvxl
(その3)
 明珍 悪くなるのを少しでもくい止めることに徹していくべきなんでしょうか。
 辺見 いや、そういう主観的な問題じゃない。たとえば重要な有事法制の問題を考えなきゃいけないというときに
白装束集団の話を、これでもかっていうぐらい取り上げる。職場で異を唱える人も出るだろうと思いますよ。ただ、
じゃあ、それが全体の流れになるかといえば、そんなことはない。もっと言えば、日本の新聞は一度だって戦争を妨
げることはなかった。事実上戦争の推進役でしかなかったわけで、今も本質的には変わっていない。それはなぜかと
自問したほうがいい。報道企業を単に社会運動的側面から見るだけでなく、市場原理のなかでの狡猾な営利企業とい
う実相からも見ていかないと。
 明珍 半世紀否定されてきた有事法制の問題がいまの時代に動いてしまった。なぜだと思いますか。
 辺見 それこそ皆さんの新聞の力でしょう。誰が本気で反対したのかこちらから聞きたいくらいですね。いまごろ
なにを言ってるのか、ふざけるなと言いたくなる。朝日新聞も毎日新聞も含めて。

(その4につづく)
216文責・名無しさん:04/02/19 20:11 ID:pZ4Qyvxl
(その4)

 明珍 もう日本ではジャーナリズムの力は期待できない。
 辺見 僕にはそういう発想はないな。個別の例外的記者たちや小資本メディアの仕事に期待することがまったく
ないわけじゃないけど、「ジャーナリズムの力」なんて言葉は空々しいというか恥ずかしいというか、白けるね。
ジャーナリズムとかメディアのとらえ方が、単純すぎますよ。おそらくね、正義のジャーナリズム論を100回聞く
より、エンツェンスベルガーの『意識産業』を一回読むほうがまだましだと思う。ないしはブーアスティンの『幻
影の時代』を精読したほうがいい。もうクラッシックになってますけど、かつては多くの記者が読んだ。マクルー
ハンが亡くなって20年以上になりますが『メディア論』に学ぶことは依然少なくないし、ダニエル・ダヤーンたち
の『メディア・イベント』だって、いろいろ問題はあるけど、勉強になります。ノエル・ノイマンの『沈黙の螺旋
理論・世論形成過程の社会心理学』も本当に興味深い。こうした本をしっかり読んでいたら、たぶん「ジャーナリ
ズムの力」なんてことをすっきり肯定的に言ったりできなくなる。いずこもそうだけど、報道業界の知的荒廃って
ひどいことになってますね。記者だけじゃなくて経営者もそう。他の業種に比べてもインテリジェンスがずいぶん
低い職域になってますね。ま、そうでなければやってけないという面もあるんだろうけど。
 明珍 新聞社で進んでいるのが、経営の外部化つまりアウト・ソーシングですが、編集職場もその流れに乗って
外部委託が増えてくるかもしれない。訓練を受けていない、経験のない人が取材し、中身の薄い記事を書いたり、
それだけではなく取材先の心を傷つけて帰ってきたりという状況が生まれる。
 辺見 権力に対しては、心を傷つけないで帰ってくるんじゃないか。取材されて心を傷つけられるのは力のない
人たちだけですよ。この業界はそうして権力と手を取り合って元気になっていく。

(その5につづく)
217文責・名無しさん:04/02/19 20:14 ID:pZ4Qyvxl
(その5)

 明珍 イラクでは日本の外交官2人が犠牲になりました。私も外務省に行ってみましたが、亡くなった二人の
記帳所の横に報道陣用のロープが張られ、だれか著名人は来ないかとマスコミが待ちかまえている。もちろん私
もその仲間にいるわけですが、何かすごく悲しい感じがしました。
 辺見 そんなこと以前に深刻な問題がある。同胞の悲惨な死というのは、格好のメディア・イベントとしてど
んどん出来事が合成されて膨張していく傾向がある。そこを起点にして日本人の物語がつくられていく。それが
日本人のパブリック・メモリーにもなる。逆におびただしい数のイラク人の死は忘れられる。「テロに屈するな」
「日本国民の精神をいまこそ示そう」ということになる。「国論」統一のテコに利用されたりする。とにかく日
本人の死、日本人の悲劇は、ある種の「聖域」として、他のものを押しのけていく。メディアがそうするのです。
日本人拉致事件が典型的な例です。「イラクの戦後復興」と言われているけれども、復興しなければならないほ
ど壊し、殺したのはいったい誰なんだって言いたくなる。復興、国際貢献の美名はそういうロジックを排除して
いくんですね。イメージが論理を駆逐すると言いますが、テレビも新聞もそうですね。驚くほど論理の射程が短
い。外交官の事件は、むしろ政府にとって利用価値のある出来事だったのではないか。少なくともそうした側面
は多少あったのではないかと思う。「テロにひるまず、自衛隊を派遣せよ」という流れをつくってもいる。それ
に新聞がテロだ、テロだと書くわけだから、政府は大いに助けられる。イラクでいま起きていること、あれはテ
ロでしょうかね。家族を殺され、自国を理不尽に占領された者たちのレジスタンス、抵抗運動じゃないですか。
じゃあ、日中戦争のときの八路軍、のちの人民解放軍、あれはテロリストか。南ベトナム解放戦線の反米闘争、
あれはテロか。そうじゃないですよね。自分の国が侵略され、無残に人々が殺されたら抵抗するのは当たり前で
すよ。それをなぜ抵抗運動と書けないか。宿命的に権力的だし、政府的なんですよ、マスコミというのは。

(その6につづく)
218文責・名無しさん:04/02/19 20:17 ID:pZ4Qyvxl
(その6)

 明珍 そもそもイラク戦争に日本政府が加担したことについても責任追及がなかった。
 辺見 それ以前のアフガンからそうでしょう。あなたの所属している毎日新聞の当時の社説。あれは何ですか。一方的
爆撃の肯定じゃないですか。それに社内でどういう抵抗があったというのですか。朝日新聞社内では多少の抗議があった
ようですけれども、大したことはない。新聞は侵略戦争に際し、どのような立ち居振る舞いをしたのか、自分たちの紙面
でしっかり検証したほうがいい。
 明珍 外国のジャーナリストによく言われるのが、「労働組合が新研活動をやるのはあまり聞いたことがない」という
ことなんですが、新聞労連の新研活動も、新聞研究をしたふりと言うことでしょうか。
 辺見 そうは思わないけれども、先ほども、言いましたが、カテゴリーかごっちゃになっているとは思いますね。ジャ
ーナリズム論は、経営者にだってできる。かつて社側として組合に抑圧的態度をとった人物がご立派なジャーナリズム論
をやったりという例もあるしね。市場原理のなかの、あるいはグローバル化のなかのマスメディアの動態、それから戦争
とマスメディアの構造的一体化ということをどう考えるか。新研の今日的テーマとして検討したら面白いと思います。
 いま、戦争構造のなかにマスメディアが重要な機能として組み込まれている。逆にいえば、戦争構造全体を支えている
のはマスメディアなんですね。さらに言うと戦争というものをハードウエアだけでなくソフト面で解析すれば、戦争自体
がじつのところメディアなのだという実相も見えてきます。マスメディアの機能は非常に大きくて、国家と戦争の根幹を
支えます。

(その7につづく)
219文責・名無しさん:04/02/19 20:20 ID:pZ4Qyvxl
(その7)

 明珍 この構造を根本から壊さない限り、戦争とメディアは切り離せない。
 辺見 それは無理でしょう。企業ですから。本当のインディペンデント(独立)なありようは、国家からの自由なんです。
かつてそういう理念は労使を問わず新聞人のなかに少しは意識されていた。国家権力と新聞という媒体には、自ずと境界線、
意識的国境があった。この境界がいまほぼ消えてしまった。少なくとも境界線があいまいになってしまった。たしかにそれは
人の意思の力だけでは済まない問題で、権力と資本の側からの浸食が強まったということもある。さりながら、新聞と国家権
力の境界線なき風景、不気味な融合はまさに危機的です。この新聞は「権力」そのものなのか、あるいは権力に抗し、市民社
会の味方をするものなのか、ということがあいまいになってきているわけです。というより、新聞は全般的に国家意思の代弁
者になりつつある。すでに欧州あたりでは指摘されていますが、高度資本主義の国家権力はそれ自体メディア化する、巧みな
情報発信機能をもつと言います。日本もそうですね。
 つまり、権力がメディア化し、マスメディアが権力化し、両々あいまって重層的権力構造を形成している。これが日本独特
の協調主義的なファシズムをつくっている。
 明珍 そのファシズムが、私たちのなかにもある。
 辺見 おそらく無意識にね。一方でそれをぶっ壊そうという理念が報道業界ではかつてなく薄れてきている。
 明珍 有事法制が衆院を通過したとき、私も傍聴席にいました。女性が涙ながらに抗議している様子を、マスコミが他人ご
とのように取材をしている。私もその一人ですが。
 辺見 このマスコミという群体のなかに、皆が自分の顔を隠しているんですよ。腐った珊瑚みたいに。主体がないんです。
主体を隠している限り誰も傷つかない。何も変わらない。変わるわけもない。

(その8につづく)
220文責・名無しさん:04/02/19 20:42 ID:pZ4Qyvxl
(その8)

 明珍 平和憲法の危機だと言われていますが、もう護憲を叫んでいても世論は付いて来ない、という指摘もある。
 辺見 世論じゃない、新聞が、つまりあなたたちがついて来なくなったんですよ。
 明珍 私たちが…。
 辺見 ええ。新聞をつくっている人や、新聞労連がついて来なくなったのだと思いますよ。この問題では新聞業界
より読者たちのほうが危機感をもっている。現行憲法の主要な論点は、戦後の世代のなかでは自明のもの、あえて論
ずる必要のないものとされてきました。そのことが悪かったのかもしれませんが、自明的ということで、 熾烈な論議
を避けてきた。護憲を論拠のない観念かお題目のように唱えてきた。あるいは口先だけで理念を語って、改憲の動きと
しっかり闘おうとしなかった。その結果が今日の惨憺たる風景になっている。
 ところで、マスコミの責任といえば、拉致報道。おそらく戦後ジャーナリズム史の病理のなかでも最も重篤な症状と
して記録されなければならない。日本人拉致事件とその被害者、関係者が「聖域」にされ、一切の異論を排除する空気
を醸成した責任は重い。
 02年9月17日の日朝交渉で、日本人拉致事件の責任の一端が明るみに出る。それから、「公憤」が政府と新聞によっ
て形成されていく。昨年10月15日の拉致被害者の帰国1周年。この前後の報道は、ジャーナリズムの名にまったく値し
ない。「日本人の悲劇」が、他の歴史的な悲劇を全部押しのけていく。きわめて大事な北朝鮮外交を新聞が政府と一緒
になってゆがめていく。そういうなかで、ミサイル防衛も決まっていく。イージス艦の派遣もそうですね。もっと強く
出なくてはダメだ、制裁せよと。北朝鮮にはたくさんの飢えている子どもたちがいるわけですが、米一粒送るなと。そ
れに新聞が反論もできない。石原慎太郎都知事が「爆弾をしかけられてあったり前」というとんでもない暴言を吐いて
も、腰の引けた反論しかできないから、平気で公職に居すわっていられる。非力な者は居丈高に糾弾するけれど、権力
にはめっぽう弱いのが、昨今のマスコミの特異体質だね。事実上、暗殺容認の発言をしてこれほどマスコミに叩かれな
いなんてのは、日本だけです。恥じ入るべきだ。

(その9につづく)
221文責・名無しさん:04/02/19 20:47 ID:pZ4Qyvxl
(その9)

 明珍 イラク戦争報道も相当な批判を浴びている。
 辺見 アフガンもひどいと思ったけれど、イラクのときもひどい。英米軍がイラクを攻撃したとき、「侵略」と書けな
くても、せめて「侵す」「攻める」の「侵攻」と書けと思うんだけど、それを「進攻」と書いてみたり、編集局幹部が
「進撃」が妥当と現場に圧力をかけたり、なにやってんだと呆れるほかない。
 明珍 イラク報道も「戦局報道」になってしまった。
 辺見 戦局報道だけじゃないです。エンベッド(埋め込み)取材で、記者も含めてアメリカの「手先」のような取材を
してしまった。
 明珍 部隊の砲弾が相手に命中したら、米兵と共に「やった」と声を上げてしまった、というようなことを活字で載せ
る。本来なら、「やった」と思わない人を取材に送るべきなんでしょうが。
 辺見 いや、とにかくすごいッス。いまの新聞って、ほんと。権力の圧力もないのに進んで翼賛報道をやるんだから。
 明珍 新研でも、もっと取り上げないといけない。
 辺見 新研活動が熱心に行われたのは遠い昔のことでしょう。いま、最も熱心に新研活動をやってるのは市民運動です
よ。労連の新研集会にどれくらい現職の記者が集まりますか。恥ずかしいくらいでしょ。僕も新研集会で講演したことが
ありましたけれど、聴きに来たのは市民の方が圧倒的に多い。情けないったらありゃあしない。

(その10につづく)
222文責・名無しさん:04/02/19 20:49 ID:pZ4Qyvxl
(その10)

 明珍 返って制作や印刷など、編集を支えてくれている組合員が熱心に来てくれたりする。来たくないわけでは
ないけれども、余裕がなくて来ない、あるいは来る意思がない。
 辺見 記者よりも市民のほうがよほど問題意識があるね。記者がなまじ深い問題意識をもつと組織内で煙たがら
れるんじゃないの。さっき国家権力とマスメディアの境界線が解消されたと言いましたが、同時に、労使間もそう
ですね。当然あるべき緊張関係がなくなりつつある。僕らの世代から見たら、あきれるような労働条件の改悪、驚
くべき取材費の削減が、平気で社例の言いなりに通っている。給与体系の変更もひどい。実はそっちの方も重大だ
と思う。職能給を導入したり、記者に階級制のようなものを付けてみたり。そういうことに、あまりにも新聞労連
は鈍感すぎますよ。だいたい労連には、こんなご時世なのに本気で闘う気構えがない。昔の方がいい意味でよっぽ
ど戦闘的でした。いまみたいなら、新聞労連も新聞協会の一つのセクションみたいになったらどうですか。こんな
のに組合費を払う必要はない。
 明珍 個々の社でいえば、労組の幹部をやった人が、会社の経営側になることは、日常茶飯事ではありますが。
 辺見 いや、もうコースですよ。組合幹部は労担へのコースじゃないの。組合をやった連中が労担になって、と
んでもない組合弾圧みたいなことをやりながら、酔っぱらうと「おれが組合をやっていたときは」と自慢げに説教
するやつがいるわけでしょう。恥知らずがどんどん偉くなる世界だね、この業界は。
 明珍 26年間も通信社に記者としていらっしゃった。よくまあ26年間も、この世界でもちましたねえ。
 辺見 たぶん外国にいたからですよ。本社にいたらもちゃあしない。日本に戻ってデスクをやっているうちにい
やになったんですよ。腐った牡蛎みたいな目玉をした男どもに。

(その11)
223文責・名無しさん:04/02/19 21:08 ID:Pjg3R300
イイこと言うなー辺見
224文責・名無しさん:04/02/19 21:11 ID:pZ4Qyvxl
(その11)

 明珍 記者としての辺見さんと小説家としてものを見る辺見さんと、視点の違いは。
 辺見 言語圏の問題があります。新聞言語というのは、符帳、記号のようなものです。新聞社の用字用語集というもので
統制されながら、これをまっとうな日本語表現だと思うのはとんでもない錯覚です。たとえば皇室用語の規制なんか新聞か
ら一歩出ればありゃしない。筆者が自分で判断すればいい。新聞では未亡人という言葉は使ってはいけないことになってい
るが、その根拠がない。説得力がない。つまり言語統制を文科省と一緒にやっている。
 一方で、「国家語」がありますね。たとえば、国民保護法。あの中身は「国民保護」じゃない、国民統制法ですよ。周辺
事態法とか、わけの分からない言葉をそのまま官報と同じように何ら抵抗もせずにメディアはそのまま使う。ジョージ・オ
ーウェルっぽくなるけれども、言語の管制と言いますけれども、国家がつくった言語というものに、市民権を与える役割を
新聞がやっている。それはぼくが作家だからというのではなくて、普通の人間として、とても気味が悪い。ただし言語圏と
いうのは、長くそこにいると、それが一番いいと思ってしまう。他の言語圏を劣っているように思ってしまう。だから新聞
記者ほど実は文章が書けない人はいない。にもかかわらず、自分たちを文章家だとか表現者とか思っている。
 一つの風景をどう表現するかは、何日も何日も悩んで、言葉を選んで、自分を傷つけながら表現していくものですね。い
まの世界をたかだか60行の世界に閉じこめようなんて、暴力みたいなもんですよ。

(その12につづく)
225文責・名無しさん:04/02/19 21:16 ID:pZ4Qyvxl
(その12)

 明珍 少なくとも表現者じゃない。ただ、このごろはマスメディアでなくてもいろいろなメディアの形がある。
ソウルでは、市民記者によるインターネット新聞が盛んで、新聞が書かないことを自分たちで発信する。私も10月、
ソウルで開かれた東アジア・ジャーナリストフォーラムという会議に出席しましたが、参加者の間でも話題になっ
ていた。労組も独自のメディアを持ち、自分たちの主張を発信していく可能性はないかと考えているところです。
では、新しいメディアをこれから探って行く、つくっていくことに、ジャーナリズムの活路があるのでしょうか。
 辺見 ジャーナリズムの活路なんて発想がないのでわからないけど、労組も各支部も独自の媒体をもつのは当然
だと思う。それにそんなものはすでにありますよ。世界にも日本にも。市民運動もそれぞれホームページを持って
発信している。なかでもイギリスでの活動は目覚ましいものがありますね。今度のイラクに対する侵略、100万人
規模のデモの多くがインターネットの呼びかけで集められた。世界のメジャーなメディアが反戦的な役割をもう果
たしていないなかで、むしろ「デーリーミラー」みたいな大衆紙が、市民団体の集会に便宜を図ったり、あるいは
資金を出したりしています。小泉首相をジョージ・W・ブッシュの忠犬だというが、日本の新聞も飼い犬みたいな
もんだね。ジャーナリズムは権力を監視する「ウオッチ・ドッグ」でなけれはならないっていうけれど、権力の番
犬ではなくて、権力の飼い犬だね。

(その13につづく)
226文責・名無しさん:04/02/19 21:18 ID:pZ4Qyvxl
(その13)

 明珍 ただし新聞社、通信社で働いている人は、編集だけではなくて、印刷、制作などさまざまな職場の人がいる。
 辺見 そうです。とても大切なことですよ。むしろ、その人たちの方が報道に危機意識をもち、たくさん本を読ん
でいるわけですよね。記者という自信過剰な連中よりも、過酷な職域にいる人たちの方がもっとマスメディアの状況
を傍目に痛切に感じている。ところが新聞というのは労連もそうだけど、記者職を頂点とするピラミッド型になって
いる。もともと差別的な構成じゃないかな。たとえば印刷職場とか発送、輸送の職場、あるいは総務や編集庶務的な
職場に対するまなざしは、もっともっと深くないといけない。記者職の待遇に比べ、明らかに差別的ですから。新聞
労連はジャーナリズム論も大事だけど、働いている仲間の待遇の問題にも本気で取り組まなければダメですよ。
 明珍 契約や派遣社員の問題がそうですね。
 辺見 ほんとそう。僕もかつて「アルバイトの諸君にもボーナスを出せ」と主張したことがありますよ。
 明珍 共同通信の労組で?
 辺見 そうです。長期に働かせておいて手当も出さないなんておかしいじゃないかと。一組合員として、そういう
のを目撃してきたんですよ。だから、座標軸、自明性と言うんでしょうか、労働組合が本来やらなければいけない自
明性というものが、いま音をたてて崩壊しているなと思いますね。理念の崩壊と同時的に起きている現象だと思いま
す。それと同時的に起きているのが組合離れですね。足下のリアリティというものをはっきりと見つめて、それを隠
したらいかんと思いますね。
 新聞労連の新研集会には実際にはどれだけの人が来ているのか、組合員がどれだけ参加したのか、そういうことを
もっと正視すべきです。実は貧寒とした状況なんですよ。新聞の持っている「病気」に一番無関心なのは、実は新聞
なんです。市民社会の方が非常に鋭い意見を持っていますよね。

(その14につづく)
227文責・名無しさん:04/02/19 21:20 ID:pZ4Qyvxl
(その14)

 明珍 活字離れと言われて久しいのですが、活字に対して子どもたちがなじんでいないから活字を読まなく
なっているのか、それとも映像文化にとって代わられてしまったのか。
 辺見 メディアというのは人間の知覚を変容させていくと言われます。活版技術ができたころは、新聞のよ
うなメディアは革命的だった。それをもっと圧倒するような映像の複製技術が登場し、しかもそれがデジタル
化されていく流れのなかで、人の感覚が変わっていく。大学で学生と接していると、学生たちは映像に関して
は極めて敏感ですね。逆に活字から世界を想像するという作業は、ひどく苦手のようです。それは彼らが不勉
強だとかいう問題じゃない。社会全域の、テクノロジーの変化のなかで、人肌の感性や想像力が大いに奪われ
ていく過程だと思うんですね。テレビの力の席巻により「世界を人間の意思の力で変革する」運動は終わった
という哲学者もいる。理由は、人が活字を読まなくなったから、想像力を失いつつあるからだという。そうか
もしれない。でもその場合の活字は新聞じゃない。ドストエフスキーやヘーゲルやマルクスを読まなくなった。
そういうことでしょう。新聞をいくら読んだって頭が良くなるわけじゃない。本当は逆だものね。

(その15につづく)
228文責・名無しさん:04/02/19 21:24 ID:pZ4Qyvxl
(その15)

 明珍 さて2004年は、日露戦争から100年。与謝野晶子が旅順に出征している弟を思って「君死にたまふこと
なかれ」と詩につづりました。有事法制、個人情報保護法など、国家による統制が強まる状況は、「100年前と似
ているのでは」と感じてしまいます。これに抗するために辺見さんご自身は、どうしていこうと思っていらっしゃ
いますでしょうか。また新聞労連、メディアの労組の私たちがするべきことはなんだとお考えでしょうか。
 辺見 与謝野晶子の詩を引用されましたが、全部お読みになっているでしょうか。この詩は死をも覚悟した凄絶
な作品です。ポイントの一つは「君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに/おほみづからは出でまさね 
かたみに人の血を流し/獣の道に死ねよとは 死ぬるを人のほまれとは/大みこころの深ければ/もとよりいかで
思(おぼ)されむ」というところにある。天皇は自ら戦争にはいかない。それなのに、人を殺し、殺されて、それ
を名誉というのはおかしいじゃないか、という気持ちを伝えている。天皇制批判とも読めるこの部分はあまり紹介
されない。晶子は十五年戦争期には戦争賛美の作品も書くのですが、日露戦争期にはあまり迎合していない。群れ
ずに個体としての表現者として腹をくくってものを書いている。ぼくはそのことに感じ入ります。
 おそらく日露戦争100年で、あの帝国主義戦争を「祖国防衛戦争」「一大偉業」「壮大な国民戦争」として美化
する傾向が強まるでしょう。いや、すでにそうなりつつある。「あのころ日本は強かった」という中味の本が刊行
されてもいる。自衛隊のイラク派兵、北朝鮮への対決姿勢、憲法改悪などの流れに、「強い日本」「強い日本人」
という倒錯的ノスタルジーが重なることは十分にあり得る。歴史修正主義の流れは一段と強まるはずです。日本の
報道はそういう流れに抗することができるか、現段階では甚だ疑わしい。ぼくは労連にも、個々の新聞・通信社に
も何も期待しない。ただ、顔のない群体から意識をしっかり離脱した、少数の例外的な新聞労働者たち−その人た
ちは皆、自分の顔と主体的意見を隠そうとしないはずですが−の苦闘には期待し、陰ながら応援したいと思ってい
ます。(おわり)