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文責・名無しさん:
◆創始改名 職員室で泣いた心痛む記憶
元ソウル女子大教授 朴 ナムキル(木南 吉)
昔は一晩がかりだった玄海灘が、いまは2時間で渡れるようになった。
日韓両国の関係は過去のどの時代よりも緊密になっている。私は85歳である。
数々の思い出がパノラマのように脳裏に浮かぶ年齢になった。
韓国で生まれ育ったが、小学校のときから日本語で勉強し、日本人の先生から
すべての教育を受けた。
日本と韓国が異なる国であるというような意識は抱いたこともなかった。ただ
祖父からは、家では日本語を使うな、日本のものを家に入れるな、と厳しく教え
られた。その理由がよく分からなかったものだ。
小学校で1,2番の成績の女生徒は公立女学校に入るものと決まっていた。私が
入ったソウルの公立女学校には、日本人教師25人、韓国人教師5人がいた。生徒にも
日本人が多かった。
女学校を4年で修了したあとは東京に出て、目白にある、今の日本女子大学に入学した。
大学卒業後、ソウルの母校に教職に就いた。初任給は70円で、同僚の日本人教師の
給料は植民地手当てがついて170円だった。1939年の話である。
教師になって間もない頃に、創始改名の制令が出された。
長年勤務してこられた高本千鷹校長が朝鮮総督府の視学官に転出され、韓国人の
朴校長がやってきた。新校長は就任と同時に「朴」の姓を「琴川」に変え、朝礼で
毎朝「期限までに必ず創始改名を終えるように」と繰り返した。
総督府のねらいが、韓国人校長に率先垂範させることで創始改名を推し進めることに
あると、私たちにも理解できた。
改名の期限がきた。まだ新しい名前が決まっていない生徒は授業を受けさせてもらえず、
そのまま帰宅させられた。
韓国の言い習わしで、悪いことをした人を「姓を変える者」と呼ぶことがある。いまや