■《天声人語》 06月02日付
「邪悪なものと対決する必要性を再認識した」。
ブッシュ大統領は、ポーランドのアウシュビッツとビルケナウの強制収容所跡を訪ねて、こう述べた。
誰もが厳粛な気持ちになるような究極の悪を見ての実感かも知れない。
しかし、その底の方に、あの独特の二元論に通ずるものを感じる。正邪や善悪とは、相当複雑で、そう簡単に分けられるとは思えない。
『日本の名随筆・悪』(作品社)を開く。編者河野多恵子は記す。「悪に関してただ一つ少しは分っていることがある。正義と信じて為される行為が、しばしば悪そのものの行為になっていることである」。
遠藤周作は「悪魔についてのノート」に、ジイドを引く。「神にたいしては、信仰しなければ奉仕することができないのに、悪魔の方は、こいつを信じなくとも、その手先になってしまうことができるのだ」。
アウシュビッツの収容所長だったR・ヘスは、手記(講談社学術文庫)の最後に、こう書いている。
世の人々は、私を血に飢えた獣、残虐なサディストと見なそうとするだろう。そして彼らは決して理解しないだろう。私もまた、心を持つひとりの人間であり、悪人ではなかったことを。
二つの収容所を巡ったのは、厳冬の2月だった。ビルケナウでは、広大な雪原にバラックの群れが続いていた。
人影は、ほとんどない。音もしない。ふと、鹿が1頭、行く手でこちらをじっと見ているのに気づいた。そして脇に、もう1頭。夫婦鹿か。
死一色の世界に舞い降りた生の象徴かと見えて、わずかながら救いを得た。