日本のマスコミは提灯持ちの大政翼賛機関 その2

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24文責・名無しさん
 事実が記者の「ものの見方、考え方」を鍛えてくれる。取材とは先入観の破壊作業でなけ
ればならない。その先入観念は、時代の世論―多数派を背景にしてできあがることを知った。
(中略)
 確かにこの50年、新聞・放送は歴代の政権にとってうるさい存在になってきた。民衆の
ための番犬として、権力監視、環境監視、社会正義の追求の役割を相当果たしてきたことも
認められる。だが、日本のプレスの自由は、天皇の戦争責任ひとつ自由に取り上げることが
できないレベルにとどまっている。職業人としての記者の内部的自由は未確立で、職業の倫
理よりも企業の論理がしばしば優越してしまう。平和憲法改正案が社論として決められると、
編集局内で護憲論は封殺される。
 (中略)
 日本社会の言論・表現はまだまだ不自由である。地域、学校、役所、会社を問わずおしゃ
べりの自由はあっても既存秩序、多数派の価値観にたてつく異端の自由はない。残念ながら、
これが50年間の自由と民主主義の実績であることを認めざるを得ない。
 ジャーナリストにいま一番大事な目標は自由の実現であり、少数派尊重による多様性の確
立である。市民革命を経験していない日本社会はまだ「ここから先は絶対後戻りしない」と
言い切れるだけの、自由と民主主義の土台を築き上げていない。
(中略)
 もうひとつ、この50年、私の頭を離れないのは「戦争に弱いジャーナリズム」のことで
ある。ジャーナリストには国籍があり、「国益」に弱い。平和より戦争はニュース価値が高
い。愛国ナショナリズムはジャーナリストにとって商売になりやすい。
 「いま世論も新聞・放送も平和を求めている、日本に再び昔のような戦争や人権無視の
時代は来ない」という声も聞かれる。だが、私の不安は消えていない。戦争もファシズムも
前と同じ顔では現れない。ジャーナリズムは新しいその顔も正体もつかみ切ってはいない。
国益や多数派に弱いメディア企業の構造も変わっていない。
 戦後民主主義を楽観的に評価することから現実主義者は生まれる。日本の現状に自信を持
ち、「もう後戻りすることはない」と言い切れる人びとである。私がその人たちの仲間入り
できるのには、もうあと50年かかるように思う。