日本のマスコミは提灯持ちの大政翼賛機関 その2

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174文責・名無しさん
 民主主義を掲げて再出発した形の戦後日本社会は、米占領軍の力でそれまでの弾圧諸法規を
廃棄した一方で、「プレスの自由」を最初から欠いていた。その後も不完全な自由が続いた。
91年に開かれた国際新聞編集者協会(IPI)の京都総会で、在日経験の長い外国人記者から、
「先進国でここほど組織的自己検閲が行われている国はない。日本は自己検閲研究家のための
理想郷だ」とまで呼ばれた。
175文責・名無しさん:03/08/22 12:07 ID:mvfUB40e
> 「多様性」の原則は、多角的で多様な報道活動によってはじめて真実追求が可能になるとい
>う考えに基づいているのに、この点が日本では軽視されているように思う。放送法の番組準則
>は「意見が対立している問題について」多角的な取り上げ方を求めているが、ジャーナリズム
>はすべての問題について、いつでも多角的な取材、多様な言論・報道が求められる。それは
>バランスのためではなく、真実追求に不可欠なものである。
> 日本の新聞・放送は批判や反対派の報道をするにあたって、とかく形式的に流れ、バランス
>を示すための口実に使っている場合が多い。関係者や識者の「談話」の取り方にも、それが現
>れる。少数派の動きや声を報じることが、あくまで真実追求のプロセスとしてとらえられてい
>ない。おざなりの「談話」でお茶を濁していることが少なくない。何のためにこの談話を取材
>し報道するのか、ろくに考えもせずに形だけつけようとするものが日常いかに多いことか。読
>者としても取材を受ける側としても、疑問を感じることが少なくない。(中略)
> 松本サリン事件で被害者の河野義行を犯人扱いしたミスも、放送・新聞が足並みを揃えて多
>数派の大勢のままに流され、少数派の本人とその周辺の声をきちんと聞こうとしなかったため
>だった。日本社会の集団主義、画一主義はマスコミにも強く、動物が一頭走り出すと群れを挙
>げて同一方向に突進するスタンピード(stampede)現象が報道にも出現する。立ち止まれば踏
>みつぶされてしまうような勢いの中で、少数派ジャーナリズムは成り立ちにくい、「マスコミ
>間違えるのも謝罪に来るのも、みんな一緒ですね」と語った河野発言の意味は重い。
> スタンピード社会は、民主主義に不可欠のオルタナティブ(もう一つの選択)を認めない
>環境をつくり出してしまう。