反時代のパンセ
連載 第89回 辺見庸
軽蔑(1)
『マルスの歌』の季節におかれては、人々の影はその在るべき位置からずれてうごくのであろうか。
この幻燈では、光線がぼやけ、曇り、濁り、それが場面をゆがめてしまう。
(石川淳「マルスの歌」から)
ものごとには潮時というものがある。よほどの文豪でもないかぎり、よしなしごとをいつまでも
だらだらと書きつらねて稿料を頂戴したりしては罰があたる。この連載もそろそろ
擱筆のころあいではないかと思えるので、本稿をふくめ、あと五回で終了することとした。
未練というのではまったくなく、ただ、なにがなし心置きつつ終わりへと向かう。
さて、有事法案が衆議院で可決されたからといって、むろんのこと、
都大路を重装備の自衛隊が行進したり、戦車隊が轟音たてて通りすぎていくということもない。
街路の公孫樹の本数に増減はなく枝さしにも特段の変化はない。ベランダの仏桑華は
今年も昨年と寸分たがわず血の滲んだような蕾をこしらえたし、水槽の小魚はまるで銀糸みたいに
ぴきぴきと水を切ってはきらめいて、以前よりよほど元気なほどである。ノー・プロブレム!
諸事万端べっして問題はなく、私としてはむしろ、あまりにも変わりなく磐石にも見える日常に、
これまで同様おじたり辟易したりしながら暮らしている。だが、本当のことをいえば、このところ、
ごく個人的な変調はあるにはあるのだ。錯覚にすぎないといわれそうだが、たとえば、
大気圧や光の屈折率などにちょっとした異変のようなものを感じてしまう。
大学の教室で学生らに話す自分の声が水中のそれのように妙にくぐもったり、
飛行機が急降下したときみたいに声が私自身から遠く離れて、あらぬ方角でぽわんぽわんと
反響したりすることがあった。有事法案可決の二、三日前の授業で、
これからこの国の運命を変える大きな法案が国会を通ることになっているのに、
キャンパスの風景がなにも変わっていないのはまったく不思議というほかない
――といった意味のことを語ったときがそうだった。
「全学ストが組織されてもおかしくない。
法案に反対して何十人逮捕されてもおかしくないほどだ。正常な風景とはそういうことだ。」
とも私の口は、さがなくというか脈絡なくというか、われながら制止のしようもなく話していた。
学生たちは耳を澄ましているように見えた。が、耳を立てるその立てかたは、
いってみれば私が突然カメルーンのバミレケ語を話しはじめたから、といった体なのである。
私は標高四千メートルの空気の薄い高原で話している心地がした。間もなく話す先から息が切れてきた。
冷や汗が脇の下から脇腹へと伝っていく。耳鳴りがする。声が散らばる。たぶん大学の気圧がおかしいのだ。
学生らはおおむね真剣な表情をしていたと思う。もっと厳密にいえば、真剣に怪訝な顔をしていたのだ。
私は光の屈折の具合にも常ならないものを感じていた。光の拡散とその相対的速度という事実によって、
あらゆる事物は「事後的にしか存在しない」というボードリアールの言葉が脳裏をめぐりめぐる。
事後的存在としての学生たち。共時的存在ではありえない私。そこにあるものは、
眼には見えるけれども実体がすでに消滅しているかもしれないという恐怖と悲しみ。それかあらぬか、
学生たちの顔の輪郭がどうもおかしい。彼らの顔は、学生証の顔写真を拡大してこちらに向けて
ずらりと並べたように、教室の宙にいずれも平たく浮かんでいるのである。まるで安物のポスター。
じっと見つめると、眼のまわりや眉間や口のあたりに青黒い隈取りがあるようだ。彼らの眼には、
私の顔もそう見えているのかもしれない。つまり、安っぽい選挙ポスターのように。
おたがいどうしてこんなことになってしまったのか。鳩尾のあたりからちろちろと
酸っぱく悲しい水がわいてくる。学生のせいではない。いくら怒れったって、怒れないのはしかたがないのだ。
理想と現実の無理な和解、過剰融合。それを強いたのは、彼らの親であり親が
北京ダックのように食わされているガラクタの情報でありそれを日々に放りだすマスメディアである。
別のクラスで私は冒頭の「マルスの歌」の一節を読み上げる。ファシズムの波動とは、
いまも昔もおそらくこういうことではなかろうか、と委細構わずしゃべくる。
「たれひとりとくにこれといって風変わりな、怪奇な、不可思議な真似をしているわけでもないのに、
平凡でしかないめいめいの姿が異様に映し出されるということはさらに異様であった」のくだりも
くりかえし二度ほど読み上げる。ファシズムはあからさまな動員と統制だけではない。
むしろわれわれ一人びとりを照らし、一人びとりが足もとに投げる光と影の微妙なずれに心づき、
それを自分の言葉で懸命に表現しようとすることのほうが大事ではないか、とだれにともなくいう。
それから力なく愚痴る。「『マルスの歌』の感慨を君らと共有するのは正直、無理かもしれないな」と。
これにつづけた以下の言葉は喉もとでとめたので声にはなっていない。
〈けれど、もしも奇跡的にわずかでも感じ方を共有しえたら嬉しい〉。
学生たちは狐につままれたような顔をしていた。だが、今度はけっしてバミレケ語を聞いているような
面持ちではなかった、と思う。それなりに感じとろうとしているようではあった。怪しい波動については、
言葉にはならなくても先刻気づいているからではないかと私は想像した。有事法案が衆院を通ったあと、
私は三つの集会で発言し、一つのデモに加わり、一つの本を読み終え、二つの原稿を書いた。
ことここにおよんでなお祝祭めく集会では、わざとずいぶん底意地の悪い話をした。
「この国の反動はついに完成期に入った。いま見えているもの、それは思想や変革の運動の廃墟だ。
私たちは闘わずして大敗北した。血の一滴も流すことなく。これはじつに恥ずかしい安楽死だ」などど。
「なぜか」と私はいくども敗北の因を問うた。マイクを握りしめておめいた。
自分一人分の風景の責任さえ果たさなかったからだ、と自答したりした。だからまっとうな全景を
こしらえることができなかったのだ、と。おめきつつ、しらじらと醒めていく自分をどうにも扱いかねた。
一言話すごとに血の濁りの一段と濃くなるのも覚えた。よくわかってもいないのにわかっているように話すからだ。
言葉と言葉の隙間から入りこむ歌のような幻聴を耳の奥に聞きもした。
「神ねむりたる天が下/智慧ことごとく黙したり/いざ起て、マルス、勇ましく・・・・・・」。
この歌の語調に私の話の調子がなぜだか不思議にかみ合っている気がしてくる。おお、たまらない。
いまは、光と影のゆがみとずれ、狂気と正気のあわいの住処をのみ、ただ倦まず綴っていればいいものを、
調子にのって大言壮語するからこうなる。会場の外のロビーでは私の本が飛ぶように売れたという。
私はよかった、よかったと笑顔で応じ、売り子をやってくれた知人らの労をねぎらいつつ、笑いの底の底で、
敗北と破綻の醜怪な穴がぱっくりと口を開けているのを感じていた。