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文責・名無しさん:
週刊文春1月16日号
朝日元旦社説に怒りを通り越して哀れさえ
京都大学教授 中西輝政
「不穏な年明けである」
元旦、朝日新聞は年頭の社説を、こう書き起こした。
「『千と千尋』」の精神で 年の初めに考える」と題されたこの社説を一
読して、朝日もここまできたかという怒りを通り越したある種の感慨、哀れ
みを覚えずにはいられなかった。というのは、朝日新聞というメディアが座
標軸を失って迷走する姿を、まさにこの社説が象徴していたからだ。
続きは
>>2以降
社説は一昨年九月十一日の米国同時多発テロと、昨年九月一七日、北朝鮮が
拉致を認めた二つの現実を取り上げ、<9・17は異常で危険な国家が日本
のすぐ隣にあることを再認識させた>という。
しかしその舌の根の乾かぬうちに、拉致問題をめぐって<感情をあおるば
かりの報道が毎日繰り返され>、<虐げられる北朝鮮民衆への思いは乏しい。
ひるがえって日本による植民地時代の蛮行を問う声は「拉致問題と相殺する
な」の一言で封じ込めようとする>不健康なナショナリズムが目につくとす
る。
さらに面妖なのは、結びに宮崎駿監督のアニメ映画「千と千尋の神隠し」
を持ち出したことだ。作中登場する<奇妙な神や妖怪><始末に負えない化け
物たち>にも主人公の千尋は、優しく彼らと向き合い、<そうすることで、逆
に彼らの弱さや寂しさを引き出すのだった>という。<この地球上にも、実は
矛盾と悲哀に満ちた妖怪があちこちにはびこって、厄介者になっている。そ
れらを力や憎悪だけで押さえ込むことはできない。それが「千と千尋」に込
められた一つのメッセージだったのではないか>と説く。
つまり<異常で危険な国家>に<優しく向き合う>ことで、<弱さや寂しさ>を
引き出すべきだと言いたいようなのだが、本気で書いているのだろうか。
元旦の社説は年頭にあたり、その年の課題や国の大きな進路を各新聞社が
論じることになっている。当然その社の基本的な考え方やアイデンティティ
を表明する絶好の機会で、おそらく朝日もこの社説に十分な準備と社内での
議論を重ねて、世に問うたものと考えて間違いない。
字面だけを追うとアニメ映画を取り上げて一見新しさを演出しているが、
その内容は古い朝日の持論に厚化粧を施してるに過ぎない。<感情をあおる
ばかりの報道><不健康なナショナリズム>など感情的になることを戒めてい
るが、実はこの社説自体が情念の議論であり、理性の議論ではないことに気
付いていない。
朝日の”焦り”
元旦の社説では、健全なナショナリズムの発露としてW杯を挙げているが、
実は何年か前の紙面では、日本人がオリンピックで金メダルを獲って熱狂し
たら、それは危険なナショナリズムだと冷や水を掛けていた。しかしW杯は
どこの国も当然のことと受け入れているナショナリズムの祭典で、その現実
は今や受け入れざるを得ない。彼らのいうナショナリズムが、いかにご都合
主義なのかがわかる。
拉致問題などをきっかけにして、日本人は新しい意識を持ち始めた。戦後
の長い迷妄の時代を脱するような議論が出てきて、国民の生命・財産、日本
の安全保障や東アジアの安定を守るためには、どう行動するべきか――、本
来の正当な国益を主張する意識に国民が目覚めつつある。
善し悪しは別として、国際社会は現実として力と国益で動いている。それ
が世界を論じるときの「原点」。そこから協調するために、少しずつどう調
整していくのかが、国際政治を論じるときの大切な筋道である。まずは原点
をしっかり押さえ、「調整」を論じるときも、「原点の重さ」を曖昧にして
はならないのである。つまり、違法に核兵器を持つような国には、まず「力」
で抑止していかなければ仕方がない。朝日の議論は、一見「現実を見ている」
というポーズを取りながら調整の議論に入った途端、この「原点」をすっか
りぼやかして、紛争が起きる原因を考えること自体が「危うい思考であり、
和解に達するためには、常に優しく向き合って、弱さや寂しさを引き出すべ
きという情緒論に一方的に傾斜してゆく。
私が哀れみを感じると書いたのは、そのカラクリと偽善に当の朝日の記者
たちがかなり気付いているのではないかと思うからだ。朝日という大組織に
は優秀な若い記者も大勢いる。そういう人たちは現実を見ているし、世界か
ら広く情報を集めている。ところが朝日という組織にあっては、議論の「落
とし所」がはっきりと決まっていて、その幅は至極狭い。また今、「右から
の波に押されている」という被害妄想も手伝って、”焦り”が重なり、時と
して強い反撃をしようと試みるが、「昔の左翼バリバリ路線」はとれないか
ら、支離滅裂な情緒論や筆先のテクニックに逃げるしかないのだ。その典型
が、この元旦の社説といえる。
日々の紙面からも、近頃の朝日には”焦り”の気分がどこを見てもにじみ
出ている。そこには、自分たちがすでに時代遅れになっているのではないか
という悩みとコンプレックスすら感じられる。
しかし、朝日は今、その原因をしっかりと考えねばならない。基本的に朝
日の論法は、何が起こってもそれが自らの気に入らないものに対しては、「軍
国主義への道」「危険なナショナリズム」というレッテルを貼ろうとする。
百歩譲って、朝日の頭の中では「あの戦争を繰り返すな」という教訓、とい
うより強迫観念が全てを支配しているのだろう。しかし、一つの教訓をあま
りに過剰に信奉すれば、必ず対極の悲劇を招くというのがこの世の道理では
ないのか。
朝日の従来の議論の本質を変えることなく、最近の国民世論に何とかソフ
トランディングさせようとする涙ぐましい試みが、最近の紙面から見てとれ
るのである。
典型的なのが、拉致報道の検証特集(昨年一二月二十七日朝刊)。この「社
説の立場から」で、村松泰雄論説副主幹は、こう書いた。
<日朝首脳会談で明らかになった拉致の非道と問題の深刻さは私たちにとっ
ても予想を超える衝撃でした><北朝鮮の国家犯罪を私たちも恨みます>
しかし、それも「千と千尋の精神で」優しく向き合わねばならない……。
この矛盾を解決するために元旦の社説は、もう一つの装置を持ち出さなけ
ればならなかった。それが、「八百万の神」の精神である。
もっぱら語られる「文明の対立」の背景にあるのは、<イスラム、ユダヤ、
キリスト教など、神の絶対性を前提とする一神教の対立>で、<「金王朝」を
あがめる北朝鮮もまた、一神教に近い>という。金正日とキリストやアッラ
ーを並べる杜撰さはさておいて、社説はこう結論づける。<いま世界に必要
なのは、すべて森や山には神が宿るという原初的な多神教の思想である>と。
衰弱する日本
従来の朝日は、こういった特殊日本的なアイデンティティ論を奉じる態度
はとらなかった。朝日が便宜上ついにこれを持ち出したのは、”戦後平和主
義”を説くのに、今や他に論理がなくなったからであろう。
日本人というのは、確かに「和を以て尊し」とするし、自然崇拝と穏やか
な民族性をもつ国民というのは、その通りだと思う。しかし同時に、日本は
危機に際しては決然と国を変革する底力をそなえた文明の本質も持っている
と、私は思う。
そのうちの一方だけ、つまり原初のおおらかな和みや癒しという縄文文化
のイメージにのみ日本のアイデンティティを求める梅原猛氏らの思想傾向
は、”戦後平和主義”の論理がすでに破綻し、あとに残った戦後的な情念だ
けでも何とか生き延びさせたい朝日と、表面上は平仄が合うのかもしれない。
しかし、その議論が行き着く先は、一切の痛みを伴う改革を否定し、日本を
立ち上がれなくしてしまう契機になるだろう。それは日本という国家を限り
なく衰弱させていくし、外国からの危険に対してしっかりと対峙しようとい
う気持ちを萎えさせ、結局、生き抜こうとする人間の意志を押さえつけてし
まう。朝日の元旦社説の行き着く先は、この点で非常に危険なものだと言わ
ざるをえない。
いま、朝日新聞は、メディアとしての大きな曲がり角にあるのだろうと思
う。しかし従来の行きがかりを捨てて、よくよく考えて欲しいのは、まとも
な国益の主張とか、「国家としての意識」を国民が健全な形でしっかりと持
つということをむしろ指導し促していく――。これが責任あるメディアの重
要な使命だということに今こそ気づくべき時だということである。
週刊新潮 1月23日号
ついに蓮池さんと横田さんを怒らせた「朝日新聞」お粗末社説
朝日新聞の偏向ぶりにはいまさら驚きもしないが、元旦社説のお粗末さに
は驚きを通り越して呆れてしまう。この期に及んでなお北朝鮮との融和を説
いているのである。これには拉致被害者の家族も黙っていられなかった。
「年頭の社説は、私たちはこの1年これで行くという元旦の計なわけです。
朝日はその社説で、他のマスコミが<日朝交渉を進めた外交官を「国賊」と
呼んだ>ことを批判していますが、私は<外交官>の後ろに<及び朝日新聞>と
付け加えて朝日にお返ししたい。そんなに北朝鮮の意向に沿うように日本を
持っていきたいのか、と」
そう怒るのは、拉致被害者家族連絡会事務局長の蓮池透氏だ。拉致被害家
族の神経を逆撫でしたのは、<「千と千尋」の精神で、年の初めに考える>
と題した元旦社説だ。イラク攻撃に突き進もうとする米国を批判した上で、
<日本にも、米国の熱狂を笑えぬ現実が頭をもたげている>
として、
<虐げられる北朝鮮民衆への思いは乏しい。ひるがえって日本による植民
地時代の蛮行を問う声は「拉致問題と相殺するな」の一言で封じ込めようと
する>
これを、<不健全なナショナリズムが目につく>
と断じているのである。ここで社説は奇妙な理屈を展開する。宮崎駿監督
のアニメ映画『千と千尋の神隠し』で妖怪に立ち向かう千尋を例に取って、
<千尋はひとり果敢に、しかし優しく彼らと向き合う。そうすることで、逆
に彼らの弱さや寂しさを引き出すのだった>
<この地球上にも、実は矛盾と悲哀に満ちた妖怪があちこちにはびこって、
厄介者になっている。それらを力や憎悪だけで押さえ込むことはできない。
それが「千と千尋」に込められた一つのメッセージだったのではないか>
と結ぶのである。
「我々はあくまで拉致被害者の家族として、拉致問題に純粋に取り組んでい
るわけです。植民地の問題とは全く別ですし、それをここで拉致問題と結び
付けること自体、全く筋違いです」と蓮池透さんはいう。
「我々は日本国民の立場に立って記事を書いて欲しいと常々申し上げている
わけです。朝日は、非合法に奪われた日本国民を”返せ”となぜはっきり書
かないのか。主権侵害を続けている国を相手に、どうやったら<ひとり果敢
に、しかし優しく>対応できるのか教えてもらいたいですよ」
拉致問題は「障害」か
朝日の報道姿勢こそ妖怪みたいなものではないかと思うが、横田めぐみさ
んの父親の滋氏もいう。
「交渉をしている最中に不審船問題を起こしたり、NPT(核拡散防止条約)
を脱退したりする相手とこれからどのように交渉していくのか、こちらの立
場を決めなくてはならない現時点で、朝日の主張が適切かどうか。朝日新聞
には、99年に拉致問題は日朝交渉の”障害”と書かれた。私たちは、朝日
に対して、拉致問題の扱いがあまりに小さく、被害者の立場にあまり立って
いないと感じていますが、今回の社説も同じような気がします」
拉致被害者が、北朝鮮に残された家族を帰して欲しいと願うのは当然であ
る。国を挙げてそう要求することが、どうして不健康なナショナリズムなの
か。朝日って、いったいどこの国の新聞なの。