「週刊金曜日」をみんなで語ろう【その恥】

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筑紫哲也のコラムでよろしいですか

 会わなくてよかった "拒否リストの新顔"
「ならば、なおのこと、筑紫氏の反論をとくと聞きたいところだが、本誌が取
材を申し入れたところ、『多忙』を理由に断られた」
 その記事の結びにはこうあった。
 依然として、”嵐の中”に私はいる。
 その週刊誌の特集タイトルによれば、私は「崖っぷち人生」にあるひとりだ
という。崖っぷちかどうかは知らないが、自分がこの世で持っている時間が限
られてきたことは知覚している。ならば「なおのこと」自分の好きにそれを使
いたいと思う。その一方で、取材のために他人の時間を奪う仕事を長い間やっ
て来たのだから、逆の立場になった時はなるだけそれに応じようとは思ってき
た。が、この兼ね合いには限度がある。ある種の、週刊誌については経験上、
全くの時間の浪費だとわかっているから応じないことにしている。予め記事の
角度を決め込んでいて、たいていはこちらを批判、攻撃する意図に基づいてい
て、何を言おうとも変わらない。一応、当人の「弁明」も聞いたというアリバ
イ作りに使われるだけなのだ。それで断ると、冒頭のような常套句となる。
 ただ、この雑誌の場合は当初から私の”拒否リスト”に入っていたわけでは
ない。それを発行している新聞社は、私が番組をやっているテレビ局とはかつ
てのような資本(株主)の関係は今はないが、友好関係は続いており、互いに社
外重役を出し合っている。取材を申し入れてきたのは掲載号の前号についてで
あり、そのころはバッシングの真っ最中、「多忙」を理由に、ではなく本当に
多忙だったので、先方の示した締め切りまでに時間を見付けることが不可能だ
った。代わりに、その号にはおもしろいコラムが載っていた。岩見隆夫氏の「
『週刊金曜日』は間違っていない」という時評である。私が番組の「多事争論」
で、報道と人権との境界を「永遠のジレンマ」と言ったのを随分弱気だと書いた。

290:02/12/14 19:30 ID:oGvlWvtU
 その同じ雑誌が次の号では、私の同じ発言を槍玉に上げるのは、変幻自在を
宗とするこの種メディアとしてはそう驚くことではない。それにしても、結果
的には取材に応じなくてよかった、と今でも思っている。
 当初から「崖っぷち人生」に追い込みたい人のリストに私を入れているのだ
から予めの意図ははっきりしている。何を反論したところで無意味である。そ
れよりも、書かれたものの水準から察する限り、「反論をとくと」聞いたとこ
ろで、それを理解できる相手なのか疑問である。
 まずこの記者は私が番組で述べたことのいちばん初めから「とくと聞いてい
ない」。私は「フジテレビ、毎日、朝日新聞、そして週刊金曜日と、拉致被害
者が北朝鮮に残した近親への取材が続き議論が起きています」と話を始めてい
る。それを「原則論しか語っていない」というのも一方の批判なのだが、「週
刊金曜日擁護論」と解釈して論破したのは、『週刊新潮』や『週刊文春』であ
り、同じ路線で追随したのが、(もう誌名を言っていいだろう)『サンデー毎日』
の記事なのである。先行の二誌を「大手週刊誌」などと尊崇しているのも、かつ
て新聞社系週刊誌に身を置いたことのある者から見れば情けないが、擁護論とい
うのなら、毎日新聞擁護論でもあるのだ。それともこの記者は親会社がやったこ
とは、『週刊金曜日』同様に間違っていると思っているのだろうか。
 「大手週刊誌」は他のマスメディアの行状を多かれ少なかれメシの種にしてい
る。その役割を私は否定しない。だが、その批判の対象となる新聞社、テレビ局
に身を置く者が常に突き付けられている設問は、それでも自分がそういう場面に
立たされた時、批判を覚悟して取材するか、しないのかである。ジャーナリスト
にとっては、ことの本質はそこしかない。一体、この記者はどっちなのだろう。

>>それよりも、書かれたものの水準から察する限り、「反論をとくと」聞いたと
ころで、それを理解できる相手なのか疑問である。

何かむかつきます。