黒人たちは出て行く日本人に言った。「ユダヤ人を昔見送った。そして今度は
日本人を見送る。私たちばいつも見送るだけ…」。
日本人が出て行ったあと韓国人が入ってきた。そしてそれまでと大きく雰囲気が変わった。
新しい経営者は気難しく、客への侮りを隠そうともしなかった。
そんなある日、彼らの経営する雑貨店で黒人少女が小物を万引きした。
店番をしていた経営者の女性が銃を持ち掛し、黒人少女を背中から撃った。
少女は即死した。
彼らに不快感を募らせていた住民は激怒して店を囲んだ。ロス市警が出動して間に入っだが、
それがかえって感情をくすぶらぜ内在化さぜる結果になった。のちに「あの店をやらせておけば」
という声が当局者の間で何度かささやかれることになる。
そしてこのときサウスセントラルの外側でまったく別の事件が起きていた。例のロドニー・キング事件、
白人警官4人が黒人を袋叩きにしたあの事件の裁判で警官を無罪とする評決が出された。
評決は黒人蔑視と受け取られた。沸騰した怒りはサウスセントラルの一画ノル
マンディ大通りの交差点で白人の乗ったトラックを襲うという形で爆発した。
九二年のロサンゼルス暴動の始まりだった。
黒人暴徒は付近の商店街を襲い火を放ち、あるいは商品を掠奪していった。
騒ぎは西のウェスタン通りに拡大した。無秩序に拡大するように見えた暴動には、
実は明らかな標的があった。
掠奪と焼き討ちは韓国人街とその商店に集中した。
韓国人たちもそれに応じて武装し黒人と見かければ容紋なく銃を発射した。
ロス暴動の死者は四日間で五十余人に達した。
火の手がロデオドライブに広がる危険が出たころ、暴動ば績圧された。
韓国人街は市警が暴動鎮圧に消極的だったと厳しく非難した。
無事の我々が犠牲を強いられた責任は市当局にある、と。
韓国人はすぐ感情をむき出しにし、他人の貴任を追及する。扱いにくい人たち
だと市民は感じた。
イラク問題でフランスが米国への協力を拒杏したとき、米市民ば怒った。第二次
大戦中のフランスばドイツ占領下でのんびり過ごした。そのドイツをやっつけるために、
一万六千人もの米兵がオマハビーチなどで死んだ。その恩も忘れたのか、と。
米国が韓国にイラク派兵を求めたとき、韓国は適当に要求をいなして「イラク
より北朝群を考えてもらいたい」とやった。
米国はフランスのときよりもっと深い怒りをぶつけた。直訳すれば「何をぬか
すか。場末国家が勝手に分裂して争った。そのために米兵三万六千人が死んだ。
それを忘れたのか」。
韓国はびっくりして兵を出したが、韓国ではもう反米は定着している。
米国は見かけ以上にばっさりと韓国との紐帯を切る方向にある。北朝鮮問題と
言ったって同じ国民の問題で、外国が口やカネを出す義理もない。韓国はもはや
北朝鮮と一体化しつつある。
北の人質になりかねない在韓米軍の撤退を決めたのもそういう背景からだ。
日本はそんな緊張した雰囲気も知らずヨン様だの冬のソナタだの。
ロス市艮が感じたように韓国人は、世界は自分のために回っていると信じてい
る人たちだ。扱いにくい人たちだ、ということを日本人も知るぺきだ。