55 :
●:2007/10/05(金) 21:04:41
病中の祭祀に関する資料・・・2002-2003年
56 :
●:2007/10/05(金) 21:06:07
天皇陛下 ご動静
平成14年(2002)
12月28日 前立腺がんによる手術の発表
12月31日 節折の儀(御所)
平成15年(2003)
01月01日 四方拝お取りやめ
01月01日 歳旦祭の儀(掌典ご代拝)
01月03日 元始祭(掌典長ご代拝)
01月16日 入院につき皇太子が国事行為を代行
01月18日 手術
02月08日 退院
02月18日 国事行為ご再開
03月20日 手術後初の外出をともなう公務
〜(中略)〜
06月16日 香淳皇后三年式年祭ご出席
57 :
●:2007/10/05(金) 21:06:47
国事行為を含む、通常の公務の中止
2003年01月16日〜02月18日
祭祀の中止
2003年01月01日〜06月15日
59 :
●:2007/10/05(金) 21:24:36
60 :
●:2007/10/05(金) 23:27:12
今上の場合は、次の順序で公務再開が行われた
医者によるガン組織の転移なしの発表
祭祀以外の公務(外出をともなわない)
祭祀以外の公務(外出をともなう)
祭祀
61 :
●:2007/10/06(土) 19:47:43
器質的な病気でない場合、同じ段階を経ることはないだろうけれど
少なくとも
祭祀以外の公務(外出をともなわない)
祭祀以外の公務(外出をともなう)
これらが健康だったころとに、同様こなせるようになり、
医者による全快発表もしくはカウンセリング等の治療の終了
の後に
祭祀
と、なるのは祭祀をないがしろにしているからとは言えないと思う
むしろ最上級の敬意かと
62 :
●:2007/10/09(火) 23:27:25
◆動静に関する参考資料◆
私たちの皇室(主婦と生活社)
皇室 Our Imperial Family(扶桑社ムック)
読売新聞
宮内庁HP
63 :
●:2008/09/04(木) 23:05:18
>>52追加修正
香淳皇后:斂葬の儀関係の資料
■平成12年(2000年)■
06月16日 皇太后崩御
06月17日 拝訣
06月18日 御舟入の儀
06月19日 斂棺の儀
06月28日 殯宮移御の儀
06月29日 殯宮移御後一日祭の儀
06月30日 殯宮拝礼の儀◆宮家筆頭の秋篠宮以下皇族・大臣議員等
07月01日 外交団殯宮拝礼◆外国弔問客
07月02日 殯宮一般拝礼◆一般国民弔問
07月05日 殯宮二十日祭の儀
07月10日 追号奉告の儀
07月15日 殯宮三十日祭の儀
07月24日 霊代奉安の儀★
07月25日 斂葬の儀★
07月26日 斂葬後一日祭の儀★
08月04日 山稜五十日祭の儀(武蔵野陵墓地)
◆は皇太子夫妻は関与しない儀式
★が雅子妃が欠席した儀式、他は出席
メインの7月25日斂葬の儀は早朝開始、終了が夜20:35
天皇皇后両陛下始め皇族方武蔵陵墓地総門御発
64 :
●:2008/09/04(木) 23:06:15
65 :
●:2008/09/10(水) 23:21:24
>>63再修正
香淳皇后:斂葬の儀関係の資料
■平成12年(2000年)■
06月16日 皇太后崩御
06月17日 拝訣
06月18日 御舟入の儀
06月19日 斂棺の儀
06月28日 殯宮移御の儀
06月29日 殯宮移御後一日祭の儀
06月30日 殯宮拝礼の儀◆宮家筆頭の秋篠宮以下皇族・大臣議員等
07月01日 外交団殯宮拝礼◆外国弔問客
07月02日 殯宮一般拝礼◆一般国民弔問
07月05日 殯宮二十日祭の儀
07月10日 追号奉告の儀
07月15日 殯宮三十日祭の儀
07月24日 霊代奉安の儀★
07月25日 斂葬の儀★
07月26日 斂葬後一日祭の儀★
08月04日 権殿五十日祭の儀(皇居)山陵五十日祭の儀(武蔵野東陵)
09月23日 権殿百日祭の儀(皇居)山陵百日祭の儀(武蔵野東陵)
◆は皇太子夫妻は関与しない儀式
★が雅子妃が欠席した儀式、他は出席
メインの7月25日斂葬の儀は早朝開始、終了が夜20:35
天皇皇后両陛下始め皇族方武蔵陵墓地総門御発
66 :
●:2008/10/09(木) 20:42:33
まけ(月経)
「まけ」ましてから八日目で中清(常態)になり、御殿外陣での御用ができる
ようになり、さらに三日後の十一日目からは大清(もっとも清い衣服)を着て
御内陣の御用もできるようになります。 「宮中賢所物語」P43-45
宮中三殿の殿内はいずれも奥から内々陣、内陣、外陣に分かれている。
内々陣にはご神体が祀られ、御簾で隔てられた内陣から拝礼する。
内陣に入れるのは天皇、皇后、皇太子、同妃まで。
内陣と外陣は白絹のカーテン状の帷(とばり)で区切られている。
「新天皇家の自画像」P244
皇太子妃が祭祀に関われないのは、まけのたびに11日(?)〜短くても8日
67 :
●:2008/10/11(土) 17:23:35
平成10年(1998年)
12月15日 賢所御神楽の儀 ○
12月25日 大正天皇例祭の儀 ○
平成11年(1999年)
01月03日 元始祭 ○
01月07日 昭和天皇十年式年祭の儀 ○
01月30日 孝明天皇例祭 ○
02月08日 仁徳天皇1600年式年祭 ×(ヨルダン国王葬儀出席)
03月21日 春季皇霊祭・春季神殿祭 ○
04月03日 神武天皇祭・皇霊殿御神楽 ×
07月30日 明治天皇例祭 ○
09月23日 秋季皇霊祭・秋季神殿祭 ×
10月17日 神嘗祭 ○
11月12日 即位十年賢所皇霊殿神殿祭典の儀 ×
12月10日 [懐妊の兆候が報じられる]
12月15日 賢所御神楽の儀 ×
12月25日 大正天皇例祭の儀 ×
12月30日 [繋留流産により入院]
68 :
●:2008/10/11(土) 17:24:02
平成12年(2000年)
01月03日 元始祭 ×
01月07日 昭和天皇祭 ×
01月30日 孝明天皇例祭 ×
02月13日 [流産後、初の公務での外出]
03月08日 仲哀天皇1800年式年祭 ○
03月20日 春季皇霊祭・春季神殿祭 ○
04月03日 神武天皇祭・皇霊殿御神楽 ×
06月16日 [香淳皇太后崩御]
(服喪のため通常の祭祀なし)
06月17日 拝訣 ○
06月18日 御舟入の儀 ○
06月19日 斂棺の儀 ○
06月28日 殯宮移御の儀 ○
06月29日 殯宮移御後一日祭の儀 ○
07月05日 殯宮二十日祭の儀 ○
07月10日 追号奉告の儀 ○
07月15日 殯宮三十日祭の儀 ○
07月24日 霊代奉安の儀 ×
07月25日 斂葬の儀 ×
07月26日 斂葬後一日祭の儀 ×
08月04日 権殿五十日祭の儀・山陵五十日祭の儀 ○
09月23日 権殿百日祭の儀・山陵百日祭の儀 ○
69 :
●:2008/10/11(土) 17:24:39
平成13年(2001年)
04月16日 [皇太子妃懐妊の兆候発表]
06月16日 香淳皇后権殿一周年祭の儀(皇居) ○
香淳皇后山陵一周年祭の儀(武蔵陵) ×
07月10日 [内着帯の儀]
10月26日 [着帯の儀]
(懐妊のため通常の祭祀は陪席なし)
平成14年(2002年)
(産後の穢れ[100日?]のため通常の祭祀は陪席なし)
03月13日 [愛子内親王賢所皇霊殿神殿に謁するの儀]
03月21日 春季皇霊祭・春季神殿祭 ○
04月03日 神武天皇祭・皇霊殿御神楽 ○
06月16日 香淳皇后例祭 ○
07月30日 明治天皇例祭 ○
09月23日 秋季皇霊祭・秋季神殿祭 ○
10月17日 神嘗祭 ×
12月16日 賢所御神楽の儀 ×(豪州・NZ訪問中)
12月25日 大正天皇例祭の儀 ○
70 :
●:2008/10/11(土) 17:24:58
平成15年(2003年)
01月03日 元始祭 ×
01月07日 昭和天皇祭 ×
01月17日 持統天皇1300年式年祭 ○
01月30日 孝明天皇例祭 ○
03月21日 春季皇霊祭・春季神殿祭 ×
04月03日 神武天皇祭・皇霊殿御神楽 ○
05月21日 開化天皇2100年式年祭 ×
06月16日 香淳皇后三年式年祭 ○
07月30日 明治天皇例祭 ×
09月23日 秋季皇霊祭・秋季神殿祭 ○
10月17日 神嘗祭 ×
12月02日 [帯状疱疹発症のため入院]
(以下療養)
71 :
●:2008/10/17(金) 21:15:58
平成6年(1994)2月9日
皇太子同妃両殿下、結婚後初の会見
Q:皇室に入っていちばん苦労したことは
皇太子妃殿下
「自分の人生でなかったような場面がありました。常に大勢の人に見られる
状況は経験したことはございませんので、最初のうちは驚きを感じました」
平成15年(2003)
ご成婚10周年の文書回答
皇太子殿下
雅子にとって,私がとても大変だったのではと思うことの一つに,常に人に
見られ注目されるということが挙げられます。私の場合は生まれながらに
皇族でした。そして,そのようなことには,時間をかけて徐々に慣れてきた
ように思います。雅子の場合はそれが私と結婚したとたんに始まったわけ
です。(それ以前からとも考えられますが....。)よく,今日まで視線に耐
えて頑張っていると思います。私は,人に見られることや注目されることに
疑問を持った自分自身の幼少のころや,それに徐々に慣れていく過程を
思い出しながらアドバイスするように努めたつもりです。(ただ,自分として,
これらをどこまで実践できたかは分かりませんが。)また,懐妊へのプレッ
シャーはとても大きなものがありました。雅子にとっては本当につらい日々
だったと思いますが,二人で乗り切ることができたことは有り難いことでした。
72 :
●:2008/10/17(金) 21:33:05
平成8年(1996)2月23日
皇太子誕生日にご夫妻で記者会見
皇太子妃殿下
「私は皇室に入りましてから、まだ二年半余りと日の浅くいので、ようやく
皇室の儀式ですとか行事、そういった年間を通しての過ごしようがわかっ
てきたところであるように思います。
(公務のない日の過ごし方は?)皇室の大切な伝統でございます和歌で
すとか、書道を楽しく学んでおりますけれど、上達への道のりは長いよう
で、気長に一歩一歩、努力していかなければいけないかしら」
平成10年(1998)12月9日
皇太子妃殿下誕生日記者会見
皇室に入りましてから、いろいろなことを経験する機会に恵まれ、大変有り
難いことと思っております。お陰様で、初めのうちは右も左も分からず一つ
一つのことを一から教えていただいておりました宮中の行事や、公務など
も次第に慣れてまいりまして、だんだんと楽しく感じるゆとりも生まれてまい
りました。
73 :
●:2009/03/20(金) 06:37:58
.∧__∧
(´・〜・`) これ持ってると書ける?
/つ●と
し-―J
おや
75 :
●:2009/06/27(土) 11:32:07
♥
曝涼
御物については必ずしも厳密に定義されているわけではないが、ここでは
皇室に伝えられている絵画・書跡・工芸品・刀剣など、とくに由緒あるものを
「御物」と称する。御物は宮内庁侍従職で管理している。
これらの由緒ある御物は、美術的・歴史的・文化的にも価値が高いといわ
れ、わが国の皇室が学芸を奨励し、保護し、文化の進展に深くかかわって
きたことの証の品である。
一般には公開されていないが、特別展覧会や美術・学術図書などを通して
随時紹介されている。(中略)
御物は、皇居内と京都御所にある御文庫と呼ばれる建物に保管されている。
皇居内の御文庫は位置的には二重橋の後方にあたり、江戸時代より西の丸
山里と呼ばれていた場所にある。
山里御文庫は明治二十一年(1888)、明治宮殿の造営と時を同じくして建て
られた。
現在、明治天皇・昭憲皇太后・大正天皇・貞明皇后の御遺物類が保管されて
いる。(中略)
御物は、皇居内と京都御所にある御文庫と呼ばれる建物に保管されている。
皇居内の御文庫は位置的には二重橋の後方にあたり、江戸時代より西の丸
山里と呼ばれていた場所にある。
山里御文庫は明治二十一年(1888)、明治宮殿の造営と時を同じくして建て
られた。
現在、明治天皇・昭憲皇太后・大正天皇・貞明皇后の御遺物類が保管されて
いる。(中略)
同庫の一角に、刀剣類を収める御剣庫がある。御剣は、皇室では古来より重
要な品で、宮中祭祀及び儀式の節に使用されている。著名なものに、太刀無
銘(号、小烏丸)、太刀無銘(菊御作)などがある。また、壷切御剣は、天皇から
皇太子へ相伝の品として授けられる由緒の品である。
御剣は、とくに保存に注意を要するため、毎月二回、専門家に手入れを依頼し
ている。
京都御所内にある御文庫は、東山御文庫・御池庭御文庫を中心とする。なか
でも、歴代天皇によって特別に保護されてきたのが東山御文庫で、天皇の勅
封の保護のもとに相伝されてきた。(中略)
京都御所内にある、東山御文庫を始めとする各御文庫に収蔵されている御物
は曝凉(涼)を行っている。曝涼とは、物を日に曝して風を通すことで、虫干しを
意味する。
曝涼の歴史は古く、最古の文献は、正倉院宝物の中に「延暦六年曝涼使解」
がある。これは延暦六年(787)に薬物などの点検を実施した時の文書である。
平安時代、宮中では七月七日に各御殿の御物を清涼殿に集めて虫干しを行う
という記述が大江匡房の著した儀式書『江家次第』にみえる。
現在の曝涼は、毎年天候の安定する秋の十月中旬から十一月にかけての約
一か月が選ばれる。場所は、京都御所の建物(参内殿室内)で、ここに仮設棚
を設置する。
勅封の蔵としては正倉院と同文庫の二つだけが現在残っているが、正倉院とは
異なり、東山御文庫の御物は、扉ではなく各収納箱ごとに勅封(天皇の勅命に
よる封印)が施されている。天皇から勅封紙(天皇の御印が捺されたもの)をい
ただき、侍従が差し遣わされ前回の御封を点検し、異常のないことを確認してか
ら曝涼が始まる。曝涼を終えると、新しい御封紙により施封し、格納する。
収納箱は勅封第一番から第百八十九番まであり、曝涼はほぼ五年間隔で一回
転するよう計画されている。期間中は雨天の日及び湿度が高い日を除き、毎日
行われる。
この間、宮内庁書陵部によりマイクロフィルムの撮影及び調査が行われ、写真
による研究利用に供される。また、学術研究者にはとくに願い出により、拝観の
機会を与えられている。
皇室の名宝(朝日新聞社刊)P330-332
とびとびになったので集約+追記>国際司法裁判所
82 :
●:2009/09/25(金) 18:29:53
「日本の間」は国際司法裁判所が社交の目的でつかうこともあるが、もともとは常設
仲裁裁判所の評議会の部屋である。年に一度、オランダ外務大臣が議長になって
招集するこの仲裁裁判所の加盟国のオランダ駐在大使の集りが催される。日本の
大使の坐る椅子の背中には金の菊の紋章が織り込まれている。実際にこの部屋が
実務につかわれることはきわめて少なく、これは年に四、五万人を数える平和宮の
見物客への見せ場である。
この百畳敷ほどの評議会室に敷かれているのはトルコの寄附した一枚織りのじゅう
たんであり、部屋のなかには当時の清国の寄附した対の巨大な七宝の花瓶や、シャ
ムの寄附した1メートル半もあろうかと思われるこれも対の象牙が飾られている。
それにもかかわらず、これが「日本の間」とよばれるのは、文句なしにこの部屋を圧
倒している壮大にして華麗な西陣つづれ錦のためである。(中略)
83 :
●:2009/09/25(金) 18:30:14
>>82 続き
今この平和宮の「日本の間」の三つの壁、そうして窓の上の欄間にかけられている
壮大華麗のつづれ錦の描写は私のよく為し得るところではない。春景に始まり百花
繚乱の初夏に終る三方の壁の花鳥の図のなかには、さきにふれたフランス語の説
明書によれば、桜、藤、柏、杉、木蓮、つつじ、銀杏の木が配され、けし、百合、あや
め、おだまき、たんぽぽ、牡丹、金盞花が咲き乱れ、熊笹が茂る。池のほとりに遊ぶ
のは、翼をかざす孔雀、きじ、しろきじ、鳩、豆鳥、燕などである。延べ十五メートル
に及ぶ、まさに壮大な平和の図である。
恐らくはこのつづれ錦が平和宮にかけられた大正のはじめ、これだけの日本の美術
が世界に紹介された例は多くはなかったであろう。そうして文字どおり燦然と輝くこの
壁掛の前に多くの人々は息をのんだことであろう。それからすでに七十年余り、色は
褪せ、ほころびも目立つようになってきた。
東京にある原画をもとにして新たに織り直す話などもあったが、紆余曲折ののち、日
本政府と川島織物の寄附ではじまった修理はようやく終り、一九八六年(昭和六十一
年)四月、オランダ側、国際司法裁判所、外交団などを招いての祝賀レセプションが
盛大にひらかれた。平和宮の「日本の間」のつづれ錦は今後長く、ハーグ観光のひと
つのポイントであり続けるであろう。
国際司法裁判所 P30-36
小田滋 1987年7月20日/第一版第一刷発行
84 :
●:2009/09/25(金) 18:30:35
85 :
●:2009/09/25(金) 18:31:03
国際司法裁判所の裁判官は、外交官の特権を有する。
小田滋の著述によれば、普通はレッセ・パッセという赤表紙の
国連事務次長以上が有するパスポートで出入国した。
しかし日本に入国する際は、入国審査官が日本政府発行の
旅券を持っていないかと尋ねたので、日本政府発行の数次
外交旅券(濃茶)のほうをしばらく使っていた、とのこと。
小和田閣下が、米国への入国の際、外交官でもないのに
外交官の焦げ茶のパスポートを使っていたとか、偉そうだとか
見せびらかすのかと鬼女スレで騒いでいたけれど、この場合
持っていて当然、手持ちではレベルの低い方のパスポートとも
言える。
86 :
●:2009/09/25(金) 18:31:29
国際司法裁判所の裁判官の着任時平均年齢は、62-3歳。
任期が9年なので、一期で退任した場合の年齢は平均71-2歳。
これまで二期務めたフランスの86歳、三選されたポーランドの82歳まで。
79歳までの勤務もザラの様子。
小和田恒は2003-2012で第一期9年が終わる予定で、その頃は80歳前後。
87 :
●:2009/09/25(金) 18:31:54
鬼女板では「玄関に芳名帳が置いてあるなんて小和田何様」的な
発言が見られたが、小田滋氏も自宅には来客名簿を置いていた
と書いている。
国籍を問わず、各地から訪れた法学者たちとの交友はハーグでの
良い思い出となったとのこと。
裁判官は所長を除いてハーグに居住する義務はない。
常設国際司法裁判所の時代と違い、会期といった制度はなく、
事件が起きればいつでも招集される。
裁判所が会合していない時は、ほとんどの裁判官はハーグから
散ってしまう。
ただ、訴訟書類などは送られてくるので、これは休暇とはみなされない。
日本の裁判所でいう宅調といった状態。
88 :
●:2009/09/25(金) 18:32:14
裁判官の前歴に関しては、分類不可能とのこと。
大学教授、行政官、外交官、司法官、在野法曹、政治家など。
大学教授と言っても、学究のみのタイプはおらず、外務省の法律顧問
を兼ねていたり、第一線の外交官であったり、国際会議で国の代表と
して発言したりしていた人たち。
外交官と言っても、もっぱら国際法を扱い、大学教授を併任している等。
物差しのひとつは国際法学者としての知名度。尺度として。
A)万国国際法学会の会員である。
B)ハーグ国際法アカデミーでの講義の経験。
だがこれも、着任時に両方を満たしている者もいれば、いない者もいる。
絶対条件ではない様子。
89 :
●:2009/09/25(金) 18:33:31
>>83 追記
小田滋氏と小和田恒氏は、国際法関係の著書を共著している
(1987年以前の時点)
ー
t
「
「
94 :
●:2011/05/11(水) 13:08:44.47
]
]
]
」
」」
]
[
]
[
103 :
●:2011/05/15(日) 08:06:08.92
y
もう戻った?