【学歴詐称】新田ヒカル70【セミナー失敗でスレアラシ】
学会の事情についてはよく分かりませんが、いまの時代、確立された権威だとか正統派の学説なんてものもほとんど解体されてしまっているのだろうと思います。
あたかもそういうものがまだ存在しているかのような仮定のもとで、その権威に楯突くようなポーズをとることで
自身のステータスを守ろうとしているなら、それは虚しいことです。
いや、別に偉そうにアカデミズム批判をするつもりはありませんでした。
例えば上に挙げたようなBI批判に対してなら、自分のような素人にだって簡単に反論が出来ます。
そもそもBIを福祉行政の代替物として捉えることが誤解だとも考えられる。
BIと福祉が並立しにくいのは、ひとえに財政的理由からであって、何かの主義主張に基づくものではない。
BIか福祉かを選択しなければならないとすれば、もちろん福祉を優先すべき。
福祉行政に改善すべき余地がたくさんあるのはその通りだと思う。
その改善すべき点のひとつとして〈選別主義に基づく給付あるいは控除〉という問題がある。
BI的な発想を福祉行政の改善に役立たせる道もあるのではないか。
規制緩和や小さな政府といった発想のすべてが悪いものなのか。
おそらくいまの政治の混迷は、大きな政府と小さな政府というものを単純に対峙させてしまう、その発想の貧困にあるような気がする。
BI導入の結果、政府は小さくなるかも知れないが、小さな政府を実現するためにBIを利用するのは本末転倒。
個人の抱える事情を考慮しないというのがBIのBIたる所以なのだから、それを批判しても無意味。
もしもBIだけで生活が賄えないなら働けばいい訳だし、それが叶わない人は社会保障制度で支えるべき。
「働きたいのに働けない人」はこれからどんどん増える。生産性が向上した社会ではそれが当たり前。
むしろBIの導入によって、働きたくないのに働かざるを得ない人が働かなくてもよくなり、その結果として働きたいのに働けない人が働けるようになるのが自然の理路というもの。
「賃金労働以外のところで生活を充実させる」ということは、BIにともなう強迫観念というより、
これからの時代に共通なテーマと捉えた方が自然だし生産的(少なくとも先進国においては)。
パターナリズムなんてくそくらえ。人類は何のために何千年、何万年も頑張って来たの?
こんなふうに書いて来ると、私自身が考えているBIというのもかなり偏ったものであることが分かりますね。
要するに、私は国が国民の生活を最低限保障するというBIの理念に対して懐疑的である訳です。
この点になると私はやはり関曠野=C.H.ダグラスの理論に還りたくなってしまう。
つまりBIというものが正当化されるのは、国に国民の生活を保障する義務があるからではなく、
現代人は過去の人類が膨大な試行錯誤や創意工夫を通じて作り上げて来たものの正当な相続人であるからだというのです。
それはいわば過去の遺産が生み出す配当のようなものです。
配当であるならば、受け取れる金額もその時々の条件によって変わって来るし、必ずしも最低限の生活保障をするという条件だって満たさないかも知れない。
BIに関して建設的な議論を目指すなら、どのようにして受け継いだ過去の遺産を最大限に活かして配当額を大きくして行くか、
そして私たち自身がさらに遺産の価値を高めて次の世代に引き継いで行くか、そのことを具体的な政策として論じなければならないと思う。
もちろんそこにはもうひとつ、もっと本質的な意味での議論が待っている筈です。
それはつまり、人類はこの先もこのような高生産性の社会を目指して突き進んで行くのか、
あるいは持続可能な社会を目指すために効率化や生産性向上に歯止めをかけて、スローダウンする方向に転換するのかという問題です。
これは非常に大きな問題ですが、これを避けてはBIに賛成も反対もあり得ないだろうと私は考えています。