【学歴詐称】新田ヒカル69【本人降臨発狂中2】

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303名無しさん@お金いっぱい。
小規模な新田は農民が自力で行ったが、中には沼などを丸ごと開発して巨大な農地に変え、
村を新設するような大規模な新田開発も多かった。
こうした大規模新田開発は、開発を申し出た者に対し勘定奉行などが許可を行い、工事が行われた。
新田開発の後は数年間年貢が免除される「鍬下年期」などの特権もあった。

その開発を主導した者によって新田開発はさまざまに分類される。

官営の新田
代官見立新田(だいかんみたてしんでん)
幕府天領の代官が新田開発に適当な土地を見立て、既存の村や農地や河川に悪影響がないか調査した上で許可される。
代官は新田から上がる年貢の10分の1を手にすることができた。
藩営新田(はんえいしんでん)
藩が主導で行うもの。
農民たちに農地開発に必要な資材を提供して新田を開発させ、彼らに鍬下年期を保障した。
民営の新田
土豪開発新田(どごうかいはつしんでん)
中世以降の土豪たちが、兵農分離により武士としての立場を放棄させられ、多摩ほか各地で大富農となっていた。
こうした土豪が資金を出し、周辺住民に労役を出させて開発した新田。
村請新田(むらうけしんでん)
農民たちが話し合い、村全体で資金と労力を出し合い開発する新田。
町人請負新田(ちょうにんうけおいしんでん)
資金力のある大都市などの商人が開発し、小作農を雇って耕させる新田。
官営の新田は東北や北陸、九州などの藩に多く、また利根川水系開発など幕府・藩の計画による河川大規模改修や浅瀬の干拓に付随したものが多かった。
一方、商人による町人請負新田は民営新田開発の主流を成した。
彼らは新田開発ブームに便乗しており、その計画はしばしば無謀で、水資源を荒らし既存の村と軋轢を起こし、
水害で破壊されるなど失敗に終わるものもあったまた開発成功後は小作農から年貢を取る不在地主となった。
とはいえこれは新田開発を加速させるため江戸幕府が享保の改革などで奨励した側面もあった。
享保の改革とともに、新田の主流は官営の代官見立新田から民営の町人請負新田へと変わってゆく。

畿内
畿内では淀川水系の治水と同時に、大和川付け替えの跡地や大阪湾岸の河口の浅瀬で次々と商人による新田開発が行われた。
大阪平野の多くの土地はこの時期に水辺から陸地になった場所が多く、こうした新田の名には開発した商人の名がつけられ、
現在でも土地の地名に商人の名に由来するものが多く残っている。
(例:鴻池家が開発した鴻池新田など)これら新田には「会所」(かいしょ/かいじょ)と呼ばれる管理事務所があり、
小作人からの年貢米徴収・貯蔵や、新田の堤防・水路などの維持管理業務、役人への応対などを行っていた。

中部
享保の改革を受けた商人たちによって、越後国の紫雲寺潟(しうんじがた、新田開発の中でも日本最大級のもの)や、
濃尾平野の木曽川河口部でも、大規模な町人請負新田の開発が行われた。
木曽川下流域は多くの水路が引かれ扇状地が水田になったほか、
河口の干潟が次々干拓されて水田に変えられていった。
もっとも、木曽川はすさまじい水害で知られる川だったため、住民は輪中を築いて対抗することになる。

関東
関東平野では17世紀以降に利根川など大河の流れが、水害防止や水上輸送の便のため大きく付け替えられ(利根川東遷事業)、
これに合わせて農民や幕府、藩の手で旧河道や沼地、丘陵地などの新田開発が行われた。
代表的なものは、代官や勘定所など幕府官僚による「飯沼」や「見沼」、「椿海」といった巨大な湖沼の干拓・新田化、
武蔵野台地では川越藩主の松平信綱による玉川上水や野火止用水など新田開発のためのいくつもの用水路建設、
同じく川越藩主の柳沢吉保による三富新田開発、小宮山杢進による、下総小金牧周辺の原野新田の開発などが知られる。
それまで雑木林や湿地帯などの荒地だった関東平野の多くは、江戸時代以降急速に農地化した。

東北、中国、九州
このほか、東北地方の各地、吉備の穴海・児島湾、有明海などで河口・沼・干潟の農地化・新田開発が進められ、農地が広がった。
特に東北など、それまで辺境だった地域でも米の生産が急上昇して、その経済が潤い文化の発展に繋がった。