【学歴詐称】新田ヒカル69【本人降臨発狂中2】

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301名無しさん@お金いっぱい。
 この世に生まれたからには有意義に生きたいと願う人は、人生にチャレンジします。
難しいことにチャレンジすると、途中であきらめたくなったりもします。
ヴィパッサナー冥想も、最後まで成功させるのは難しく、「なぜこんなことやらないといけないのか」と途中であきらめたくなるかもしれません。
しかしこの修行だけは、決してその気持ちに負けて、やめてしまってはならないのです。
世の中の他のことは、別にやめてもかまいません。
どんなことでも成功すると気分はいいでしょうが、ただそれだけなのです。
やがて消えてしまいます。ヴィパッサナーで得た智慧だけは、自分のものとして残るのです。
生まれてきて何にチャレンジするべきかというと、自己を本質的に向上させること、心の汚れを落とすこと、生きることを乗り越えること。そこにチャレンジするべきです。
この修行をやり終えたら、「やるべきことはやった」という絶対的な幸福感、絶大な充実感が出てくるのです。

 ヴィパッサナー冥想は、嫌になってやめてはならないだけではなく、いい気分になってもやめてはならないのです。
冥想して「何といい気分か」と思うと、またそこで止まってしまうのです。
「何といい気分か」と思うのも思考であって、実況中継ではありません。
とにかく今の一秒でやっていることを実況することが冥想だとしっかりと理解しておけば、うまくいくと思います。
実況中継を続けていって自分の思考が全く出なくなったら、真理を発見しているのです。
そこで、生命として、人間として、必ずやらないといけないことをやったことになるのです。

 そういう話を聞いて「なるほど」と思ったとしても、「では精一杯がんばるぞ」と励む人はとても少ないのです。
経典に「毒矢のたとえ」という話があります。
ある人が毒矢に射られて苦しんでいるのに、「この矢を射たのはどういう階級の人か、どういう肌の色の人か、
どういう職業の人か、弓矢の材質は何か、それらのことを調べてこなければ、この矢を抜いてはならない」と言い張る話です。
毒矢が刺さってひどく苦しいのだから、何よりもまず矢を抜くべきなのに、正しく治療することだけはしようとしないのです。

 この毒矢のたとえ話を強く心に刻んで覚えておかないと、ブッダの教えは、自分の役に立ちません。
ヴィパッサナー冥想をして悟りにまで至る人がゼロに近いのも、そこなのです。
皆、「誰が矢を撃ったのか」と調べようとするのです。
自分の問題を置いておいて「輪廻などあるのか、神はいるのかいないのか」ということばかり考える。
あるいは「姑さんが悪い、職場が悪い。だからなんとかしなくちゃ」と冥想しようとする。
そういう「思考・妄想」を置いておいて、自己をありのままに観察するのがヴィパッサナーです。
自分の心をありのままに観察すると、自分が直るのです。他を直すのではなく自分を直すのです。
自分の心の問題を解決することこそ、何よりも大事なことなのです。
人は、人間として生まれた時点で、必ず、基本的に解決しなければならない「生きる苦しみ」をかかえているのです。
初めから矢に刺されている状態です。でも「誰がこの矢を撃ったのかわかるまで、この矢に触るな」と言い張るのであれば、どうしようもない。
どんな道を選ぶかは各自の自由なのです。

 冥想修行において、修行が楽しくできるかどうかは個人差があります。これは誰にもどうすることもできません。
そこは気にする必要はないのです。明るく楽しく修行しようとしすぎると怠けてしまいます。
逆に、結果を出そうと鬼のようにガリガリ神経質にがんばると、怒りが出てくるのです。
煩悩に絡まれて煩悩をなくすことはできません。ではどうすればいいかというと、答えは簡単です。
「自分の精一杯」を、やればいいのです。それが中道です。中途半端で気楽にやることもせず、神経衰弱になるほどがんばることもしない。
自分ができる範囲で精一杯がんばるのです。それで十分進むと思います。

 お釈迦さまがおっしゃっている業の話から見ると、心にとって、ヴィパッサナー冥想以上の善行為はないのです。
ヴィパッサナー冥想で心を育てることは、功徳の中でも一番高い徳を積む行為です。私たちは心で生きています。
だから心を育てるのが何よりも大事なのです。
ですから、皆、ヴィパッサナー冥想を真剣にがんばった方がいいんじゃないかなと思います。