「知識時代の実践的組織論6」をスタートします。
今回で結論まで到達するようにがんばってみます。
最終回らしく、目標も以下のように再定義します。
知識時代とは、情報化社会とか情報社会と言われている現在でなく、今正に来ようとしている新しい時代です。
知識と情報との定義・差異は、ドラッカーに倣って以下のように解釈しております。
“知識は、通貨のような非人格的な存在ではない。知識は、本や、データバンクや、ソフトウェアの中には存在しない。
そこにあるのは情報に過ぎない。知識は昔から人間の中にある。
人間が、正しく、あるいは間違って使うものである。
それゆえに、知識社会への移行とは、人間が中心的な存在になることにほかならない。
そして知識社会への移行は、知識社会の代表者たる教育ある人間に対し、新しい挑戦、新しい問題、さらには、かつてない新しい課題を提起する。
(プロフェッショナルの条件、ダイヤモンド社、p.217)”
(以下、次回へ続く)
(前回に続く)
逆に、情報時代の末期的症状は、現在の社会状況であり、ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の最後に近い
p.366で述べている以下の文章の通りである。
“営利(活動)のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、
今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない。
将来この鉄の檻(非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、
あの強力な近代的経済秩序)の中に住むものは誰なのか、そして、
この巨大な発展が終わる(おそらく将来、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきる)とき、
まったく新しい預言者たちが現われるのか、あるいは、かつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、
それと――そのどちらでもなく――一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、
まだ誰にも分からない。
それはそれとして、こうした文化発展の最後に現われる「末人たち(letzte Menschen)」にとっては、
次の言葉が真理となるのではなかろうか。
「精神のない専門人、心情のない享楽人。
この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。――”
基本的なテーマは知識時代の実践的組織論3から続いている通り、
“日常計画を実行するプロセスで、既存の戦略(らしきもの)を自己組織的かつ日常的に改善できる組織構造や組織行動のあり方を改善する”を目標に進めようと思います。
また、具体的な話題は知識時代の実践的組織論4で発言した以下のように考えています。
> ヒューレット・パッカードと万博とトヨタ自動車とがドッキングして複雑性組織論の先端的組織論の先端的議論になる予感、、、
>>1-2をまとめると、
>>1 知識社会への移行とは、人間が中心的な存在になることにほかならない。
>>2 精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう
この矛盾の深淵こそ、
>>1 知識社会の代表者たる教育ある人間に対し、新しい挑戦、新しい問題、さらには、かつてない新しい課題を提起する
のではなかろうか?
そうです。
窮している答えの鍵は、教育ある人間個人ではなく、組織的な協力関係の構築にあることに早く気づき、手を打つことだ。