そしてその身をどうするんだ 本当の孤独に気づいたんだろう?
――闇に守られて 震える身に 朝が迫る
遮光カーテンの隙間から漏れる眩しい光、夏の朝日。
じっとりと汗ばんだ体と、汗で湿った布団に耐えきれず、僕は嫌々体を起こす。
夏の暑さが齎す浅い眠り。疲れが全然抜けていない感覚。ベッドの横で一晩中首を振ってくれていた扇風機が僕の前髪を揺らす。
裸足のまま、床に下りて僕は階段から居間に向かう。
「おはよう……」
言いかけた声が固まる。僕の頬に浮かぶ自嘲気味な笑い。
何を言っているんだ僕は? 誰も居やしないのに。
何をやっているんだ僕は? 誰も答えやしないのに。
誰も……?
あまり良く眠れなかったせいか、頭がガンガンと痛んだ。僕はぶんぶんと頭を振って痛みのもとと一緒に、微かに残る夢の残滓を振り払った。
頭痛薬を飲むために冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出し、冷凍庫で凍らせたグラスに注ぐ。
先刻から感じていたズキズキした重たい痛みと別種の、キーンと刺さるようなこめかみの痛みに、僕は少し後悔しながらシャーベット状の氷が微かに浮かぶ冷たいお茶で小さな錠剤を飲み込む。
半分が優しさでできていようと、下心でできていようとこの際構わないから、とにかく早く効いて欲しいものだ。そんなことを思いながら見慣れた部屋の中をぼんやりと見渡す。
花瓶代わりに使っていたリキュールの瓶に挿したバラの花がすっかり萎れて薄茶色に変色している。……暑いわけだ。一人で納得して、花を取り替える事も捨てる事もせずに、僕は食卓テーブルの椅子に座った。
「どこに行こう……」
ぐったりと体をテーブルに預けながら、僕は一人呟く。
今はただ、この暑さから逃れたかった。
鬱屈とした気分のままで、一人、家に居るのは願い下げだった。
「河原にでも行ってみようか……風が吹いていたら少しは涼しそうだし」
誰かに会えるかもしれないし――呟きかけて、僕は自分の頭を一回軽く小突いた。
……散歩に理由も糞もない。そもそもそんなところにわざわざ出かけて行く酔狂な奴は生憎と自分以外には存じ上げていない。
どうせ遊びに行くなら、クーラーの効いたゲーセンなりカラオケボックスなりに行くほうがよっぽど賢明だ。実際知り合いの大多数はそうしているだろうし、その他の選択肢として河原を選ぶ奴はまず、いるまい。
だがそれで良いのだ。
だからこそ静かに時を過ごせると言うものだ。
二人静かに、ゆっくりと……誰の邪魔も受けずに。
……二人?
誰がそんなところに一緒に行くものか。一人静かに、の間違いだろうに。
僕はもう一度、自分の頭を小突く。
夏の暑さが、どうやら本格的に僕の脳を溶かし始めているようだった。冷水で顔を洗い、服を着替えて出かける。
……堤防沿いの小道。河原に沿った小公園。整然と並ぶ街路樹に挟まれた道。その道なりに僕は歩きつづける。
川の流れに少しだけ冷された風。体感温度にさほど変化はないが、空気の動きと水の匂いが心地良い。
背中にうっすらと汗を感じ始めた頃、丁度良く自販機がその姿を現す。ポケットから財布を取り出し、スポーツドリンクのボタンを押す。取りだし口から出てきたそれを取ろうと屈み込もうとしたところで思い直し、コインを追加投入。
ボルヴィックのボタンを押したところで、僕は一人固まった。
……なんでこんなもの押したんだ?
大体普段僕は、水なんてわざわざ買って飲まないのに……?
暑さの所為、だと無理矢理思う。
二つのペットボトルの重さに辟易しながらもう少しだけ、歩く。急に視界が開ける。休憩用のベンチが幾つか並んだ場所。その一つに僕は腰掛ける。あたりには見知った顔どころか、人っ子一人いない。
「そりゃそうか……」
呟きながらスポーツドリンクを飲み干す。
続けて開けたボルヴィックをちびちびと飲みながら、川面に目を向ける。
風の音、遠くを走る車の音、それしか聞こえない。
静けさを求めてここに来た筈なのに、その静けさがひどく物足りなかった。
ズボンの埃を払い、僕はゆっくりと立ち上がる。
カラン、わざと音高く二つのペットボトルをごみ箱に放り投げた。
たぷん、小さな水音と共に、お腹を押さえて僕は再び歩き出す。
河原から続く公園を抜けて。
住宅街の坂道をゆっくりと登る。
勾配が緩やかな事に騙されて、急に開けた景色に息を飲む。
気づかないうちに随分高いところまで来ていた事に、知っているのに驚かされる。
眼下に広がる中世ヨーロッパを模した駅前の商店街。
遥か遠く、青く光り輝く海。
吹きぬける風が、一段階涼しくなったような錯覚。
僕の――僕達の街。
この地に最初に移り住んできた人々の特異な感性で築かれた、御伽噺のような街。
丘の頂上、やはり欧州風の白亜の建物。
――最初からこうすればよかったんだ。
僕は図書館の中に足を踏み入れる。
クーラーによって冷された本の匂いが鼻を擽る。
吹き抜けの広いホールのあちこちに、夏休みの宿題を片付けている中高生の姿があった。
(僕も宿題持ってくればよかったかな)
今更後悔してみるが、もう遅い。
ただボーっと涼んでいても芸がないので、僕は書架に歩み寄って、当面の暇つぶしになりそうな本を物色する。朝から感じていた頭痛は何時の間にか収まっていたが、なんとなく活字を追いたい気分ではなかった。
結果、鉱物辞典を小脇に抱えた僕は、隅の方のテーブルに腰を下ろし、ぼんやりとページを繰った。
ペリドット、ガーネット、ムーンストーン、ラピスラズリ――アクアマリン。
宝石の名前と、写真の中の鈍い輝きだけが僕の頭を通りすぎて行く。どこかの映画で見たようなシーン。タイトルを思い出そうとして、それを為し得ない。
「……何難しい顔してるの?」
反射的に顔を上げる。目の前にびっくりした女の子の顔。その顔が見知った顔だったので、僕は安心して……同時に何故だか少しだけがっかりした。
「そんなに難しい顔してた……? えっと……」
「あー!!」
彼女は突然大きな声をあげる。一斉にフロア中の視線が僕達に集まる。ぺこり、頭を下げると、彼女は囁くように、それでいて鋭い声を投げかけてくる。
「なに、ひょっとして名前忘れてる? クラスメイトの!」
……図星だった。
「…………佐藤」
「佐々木よ、佐々木!」
呆れたように言って佐々木と名乗った彼女は、両手を腰に当てると小さく溜息をついた。
「“さ”しかあってないじゃないのよ。……全く、海神君って時々信じられないボケをかましてくれるよね……なんかさ、普段から自分の世界だけで生きてるってゆーか」
失礼、言いながら彼女は返事も待たずに僕の隣の席に腰掛けた。ひょい、と体を伸ばして僕が読んでいる鉱物辞典を覗き込んでくる。
「何これ……? 海神君って、こんな趣味あったの?」
「いや……」
なんとなく、と僕は曖昧に答える。開いたままのページ、アクアマリン――三月の誕生石。
「あー、これ私の誕生石なんだよ! ……まあ、それは良いとしてなんで読む本もないのに図書館なんかに来てるわけ? 涼みにきたの?」
首肯しかけて、僕はふと、思い留まる。
今朝からずっと抱きつづけていた感覚。
僕の胸を締め付けていた微かな焦燥。
僕の胸に去来していたある、予感。
僕は、ゆっくりと口を開く。
「――誰かに、会えそうな気がしてね」
「へえ、そうなんだ?」
佐々木さんは、何の感慨も抱いていないような軽い口調で言葉を返してきた。
「じゃあ、会えたね」
あっさりと、そう言う。
「あのさ……どうせ涼むんだったら……映画でも見に行かない?」
僕は――今度こそ首肯した。
そして季節は回る――くるくると。
僕達の運命を乗せ――カラカラと。
運命の女神の糸車が、休む事無く。
選ばれなかった名前を 呼びつづけてる光がある
特別じゃないその手が 触る事を許された光
遮光カーテンの隙間から漏れる鈍い光、冬の朝日。
覚醒したばかりの意識が、まず寒さを伝えてきて、僕は布団を首もとまで引き上げた。
このままずっと眠っていたい、布団に溶けそうな体を叱咤激励して、僕はどうにか体を起こす。
冬の寒さがくれた深い眠り。意識は兎も角、体の疲れは十二分に抜けている。タイマー通りに作動した電気ストーブが、部屋に仄かな温もりを供給していた。
裸足のまま、床に下りてフローリングの冷たさに小さな悲鳴をあげる。
階段から居間に下りて、ドアを開くと同時に無意識に声がでた。
「おはよう……」
言いかけた声が固まる。軽く頭を叩く。鮮明な既視感が僕を襲う。
「前にもやったな、これ……」
やった事は思い出せても、いつだったかは思い出せない。頭を掻きながら洗面所に向かい、冷たい水で意識をこじ開けた。
オーブントースターにパンを放り込み、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
パジャマの上からガウンを羽織り、パソコンデスクの前に座る。
ぴこん、と言う電子音が新着メールの存在を告げた。
《めりくりー!》
ヤッホー! 元気してる? って、おととい会ったばっかりか。えへへ……♥
いくら鈍い海神君でも流石に大丈夫だと思うけど、一応確認しておくね? 今日はクリスマス・イヴ、そう……恋人達のためにある一日なんだから!
まあ、次の日が誕生日の偉い人は、なんで自分の誕生日の前の日が、そんなことになっているのか天国で頭を抱えているのかもしれないけどね。
と、いうわけで忘れて無いとは思うけど、今日はベティーズ横の時計塔の広場で4時に待ち合わせだからね!
まあ……その……何を、とは言わないけど……期待しているからねっ♥
それじゃあ、また後で!
遅れたら承知しないからね!
ゆま
……信用の無い事で。
苦笑いしながら席を立ち、トーストをコーヒーで流し込みつつもう一度メールを読み返す。顔を上げた視線の先、窓越しの青い空。天気予報では、計ったように夜からは雪。
「晴れてる昼間のうちにじっくりプレゼントを選ぶとしますか……」
ひとりごちながら、その他のメールをチェックする。
食い止めきれなかった業者メールに混じって、そのメールはあった。
《兄くん…………会いたいよ…………》
ただ、それだけ。
署名も何も無ければクリックするURLも無い。
業者からのメールにしては片手どころか両手落ちだ。
送信者は何故か文字化けしてしまっているようで、“千”という漢字だけがどうにか見て取れた。返信先のアドレスも、有り得ない無意味な文字列が並んでいた。
新手の怪談スパムか何かだろうか?
削除しようとした手が、一瞬だけ止まる。
(兄くん……?)
聞き慣れない、奇妙な兄呼称。それが妙に引っかかった。懐かしいような、どこか心の奥底を切なげに撫で去るような。
「ふっ……」
気のせいだ。第一僕は……ひとりっ子なのに。
メールをごみ箱に放り込んで、僕はパソコンの電源を落とす。
イヴの街が僕を呼んでいる。
優柔不断な自分の性格を考慮して、プレゼントを選ぶ時間はたっぷりと用意してあった。
着替えを済まし、コートを羽織り、ストーブの火を落とし、僕はドアに手をかける。
振りかえって眺めた部屋の中、主が不在のままのリキュール瓶が目について、僕は花屋に行こう、とふと思った。
笑われる事なく 恨まれる事なく 輝く命などない
眩しいのは最初だけ 目隠し外せ
ほら…… 夜が明けた
佐々木由真。
出席番号13番。
成績は中の上、運動もまずまず、クラスでもかなり可愛いほう。
平凡だった僕の毎日に滑り込んできた騒々しい闖入者。
言い知れない喪失感を抱えていた僕に話しかけてきた女の子。
形容し難い心の隙間を埋めてくれた、僕の恩人。
友達以上恋人未満。
そんな使い古されたフレーズが良く似合ってしまう、僕の大切な友達。
だけどもそれは昨日までで。
僕にとっての彼女の存在。
その答えが、今夜、出るような気がした。
奇跡の夜に、何かが変わるような確信めいた想いがあった。
由真と僕。
二人で過ごす3つ目の季節。
夢を見続けていたような日々に、何かが起こるような予感があった。
キラキラと耳朶で弾けるクリスマスソング、鈴の音の響く街角。
コートの襟をかき合わせながら、僕は白い息を吐く。
通りすぎる人々の息も、皆等しく純白に染め上げられ。
楽しげな恋人達の語らいも、幸せそうな親子連れの軽口も、凡て真白な煙に変わり、空に溶けていく。
まるでそれが白い結晶になって、再び地上に降りてくる事を暗示するように。
雪の欠片を集めた空の色は、冬の鉛色に何時の間にか変わり、ただでさえ短い昼間をますます短く感じさせ、人々を足早にさせていた。
抱え込んだバラの花束を気にしながら、僕は腕時計に視線を落とす。
時間は三時半。どうにか約束の時間には間に合いそうだった。
そっと確かめるようにコートのポケットに手を伸ばす。
小箱の固い感触。自然と頬が緩む。
後は待ち合わせの広場へと向かうだけ。
それだけの筈だった。
「……あにくん」
幼い泣き声が僕の耳を打つ。
雑踏の中、驚くほどはっきりと。
群衆の中、あまりにも鮮やかに。
「あにくん……どこ……」
露店の張り出し屋根の下。
暖かそうなコートに身を包んで。
うさぎさんのぬいぐるみを抱えたまま。
女の子が泣いていた。
女の子が呼んでいた。
まるでその子のいる場所だけ、時の流れから取り残されたかのように。
人々は何事も無かったように少女の隣を通りすぎる。
それぞれの未来に向かって足早に歩き去って行く。
僕もそうして良い筈だった。
僕もそうする筈だった。
なのに――
「お嬢ちゃん……どうしたの?」
声をかけた僕を見上げる大きな瞳。
綺麗に纏められたシニヨンの横でもうさぎさんが微笑んでいる。
それとは対照的な泣き顔のまま。
「ちか……まいごになっちゃったの……あにくんが、いないの……」
少女は声を詰まらせながらそう言った。
途端――
くらくらとした眩暈が僕を襲う。
ズキズキとした頭の痛みを久しぶりに思い出す。
だが今の僕は頭痛薬を持ち合わせておらず。
世界が歪んでいくのをただ黙って感じるより他には無かった。
感じる凡てが現実では無いような錯覚。
信じる凡てが嘘だったような焦燥感。
――不意に。
僕の手の中に確かな感覚が宿る。
「おにいちゃん……だいじょうぶ……?」
手袋に包まれた小さな手。
一人凍えていたこの手が出会った温もり。
急速に、体が楽になる。
そうか……。
頭痛薬の半分は……優しさで出来ていたんだっけ……。
「大丈夫だよ、ありがとう」
優しく微笑んで。
「心配してくれたお礼に僕が……“あにくん”を探すのを手伝ってあげるよ」
そう言った僕に少女は眩しい笑みを向けてくれた。
優しい光を向けてくれた。
手を繋いで僕達は歩き出す。
映画館の横を抜け、アーケード街を通過し、その先へと。
それは短い道のりだけれど。
僕の記憶を辿る遥かな路程。
由真とポップコーンを分け合いながら見た映画の事。
散々僕を連れ回した挙句に何も買わなかった事に端を発した口喧嘩。
仲直りの印に二人で食べて結局残した喫茶店名物のパフェ・キリマンジャロ。
それとは別に……僕は思い出していく。
懐かしさと後ろめたさと、幸せと不幸が綯い交ぜになった心で。
あの日々を。
あの世界を僕は思い出していく。
やがて、
懐かしい路地裏に僕は到着する。
それと同時にこんなところがあったのかと、矛盾した驚きを抱きながら。
小さな露店の中に、怪しげな黒いローブを纏った占い師。
「そうだ、うらないしさんならあにくんのいばしょをしっているかも!」
少女はそう言って僕の手を引いて、露店の前に立つ。止める間もなく、少女は可愛らしい声を張り上げる。
「うらないしさん、うらないしさん! ちかのあにくんがどこにいるのかおしえてください!」
ローブから微かに覗く、占い師の口許に笑みが浮かんだ。そのおどろおどろしい姿とは裏腹に、優しそうな微笑が零れた。
「それは……もうすぐに出会えるさ……いや、もしかしたらもう……出会っているのかもしれないね……」
それよりも、占い師はそっと少女の頬に触れた。
「キミは他にも……会いたい人がいるんじゃなかったのかい……?」
ぱっ、と少女の顔が輝く。
「すごい! うらないしさんはやっぱりなんでもおみとおしなんだね! あのね……ちかはね……」
後に続く言葉を僕は知っていた。
僕は聞かせて貰っていた。
他ならぬ彼女の口から。
イヴの夜、ベッドの中、眠れずに。
「街で一番高い場所……つまり時計塔に上れば空を駆けるサンタにだってきっと会えるさ……」
「そっかあ! でも、とけいとうのいりぐちにはいっつもかぎがかかっていてはいれないよ?」
「フフ……それなら大丈夫……時計塔の鐘には魔法が掛かっていてね……十二月二十四日の午前零時の鐘が響いている間だけ……時計塔の入り口の鍵を開けてくれるんだ……」
占い師と別れた後すぐに、少女の兄が路地裏まで駆けてきて、僕達を呼び止める。
興奮して兄に報告する少女。
窘めながらも優しく少女の頭を撫でる兄。
元気良く僕にお礼を言って、二人の姿が雑踏に消える。
その姿をゆっくりと見送って、振り返った先にもう占い師の姿は無い。
伝え聞いた記憶と、自らの体験が重なり合う。
ただ、記憶と一つだけ違う事――
「こら、遅刻だぞ」
占い師の代わりに、由真が腕組みをしてそこに立っていた。
歩き出した迷子 足跡の始まり
ここには命がある
選ばれなかったなら 選びにいけ
ただひとつの栄光
「ごめん……」
「謝らなくてもいいよ、見ていたから。海神君のそういうとこ……優しいとこ、好きだからさ……」
二人の間に沈黙がおりる。
少しだけ目線を反らすように俯いて、足元の石を蹴る真似。由真は、無理して微笑んだ。
「思い……だしちゃったんだね……?」
「ごめん……」
もう一度、僕はそう言った。
不意に――
体にぶつかってくる暖かな塊。
鼻を擽る柔らかな髪の匂い。
背中に回された細い腕。
僕の目線から外れて、表情は伺う事が出来ない。
「どうしても……だめ……なのかな……」
――声が泣いていた。
僕は言葉に詰まる。
「私じゃダメなのかな? 私なら、貴方と一緒になれるんだよ? 普通に結婚して、愛し合って……暖かな家庭を作って……一緒に……歩いていけるのに」
「そうだね……でも、僕は帰らなきゃいけないんだ……」
がばっ、本当にそんな音がするぐらい激しく、由真は顔を上げる。綺麗な顔が涙に濡れている。分かっていた事だけど、僕の心が軋みをたてる。切なさに押しつぶされそうになる。
「帰る……か……。……海神君、貴方がそう思うなら仕方がないけど、あのね、この世界だって、夢なんかじゃないんだよ! この世界もまた、一つの可能性……海神君が選びさえすれば、この世界が本物になる事だって有り得るんだよ!
私は……私は……夢でも夢魔でもない! 由真……佐々木由真なんだから!!」
それは絶叫だった。
鼓膜よりも、僕の心を大きく揺らす絶叫だった。
もしも――
僕が何も知らなかったなら。
僕が何も思い出せなかったなら。
僕はきっと――そう、思い出した今でさえ、こうして心を揺らしているのだから。
それでも――
それでも――僕は。
「ごめん……」
3度目の言葉。
そっと由真の肩を持って、体を引き剥がす。
「約束したんだ……どこにも行かないって。今年も来年も……クリスマスをずっと一緒に過ごすんだ……って……」
短い沈黙の後、あーあ、とあっけらかんとした声が聞こえた。
「ほんとは最初から分かってたんだけどね……こうなるってこと……海神君は……優しいから……そこが……好きだったんだけどね」
過去形。
僕は目を合わせていられない。頭を書いて、ぼそぼそと言葉を零すのが精一杯。
「優しかったら……女の子を泣かしたりなんかしないよ…………あ、そうだ、せめてお詫びに……」
「バーカ!!」
ポケットを探り始めた僕の頭を、由真は軽く小突いた。
「それは他にあげるべき人がいるんでしょ!」
私はこれで充分! 言いながら僕の手から花束を奪い取る。
「さっさと行っちゃえ!!」
どん、と僕の胸を由真は突き飛ばす。しゅるり、と音をたてて僕の首に何かが巻き付く。
「お返し!!」
捨て台詞のようにそう言って、由真は背を向けて駆け出した。その背に向けて僕は叫ぶ。
「忘れないから!!」
一瞬、由真の足が止まる。
「また会おう!! 絶対!!」
「約束……したからね!!」
振りかえった泣き笑いの白い顔。
絶対忘れるものかと僕は思う。
絶対忘れやしないと僕は誓う。
ロンリーグローリー 最果てなど無いと知る
――この歩みよりも もっと速く 飛び続けている光ならば
白い息を蒸気機関車のように吐き出しながら、まるで体当たりをするみたいに、僕は家のドアを開けて室内に転がり込んだ。
薄暗い部屋の中、サイドボードの上のリキュール瓶が仄かに輝いているのが分かった。
僕はそれを取りあげると、台所に行き瓶の中に水を注ぐ。
ふと落とした視線の先、コートの胸元に一本のバラが挿されていた。
「あいつ……」
まったくどこまでも……お節介な奴なんだから。
心の中で深く感謝する。
コートを脱ぎ捨て、元あったところにリキュールの瓶を据え付けると、バラの花をそこにそっと挿した。
瓶の横に、一枚の紙が置いてある。
愛し合う二人がお互いの名前を記し、永遠の愛を誓う“聖バレンタインの書”。
僕はゆっくりとそれを開いた。
片方のページに、僕の名前。
もう片方のページには……愛しい人の名前。
どうして今まで忘れていたのだろう、懐かしい名前。
確かめるように、噛み締めるように。
僕はその名前を口にする。
厳かに、その目を閉じて。
光あるところにいつも差す。
そっと僕の側に寄り添うその名前を。
「千影…………!」
閉じた瞼の裏が明るい。外からはしゃわしゃわと蝉の声。――夏の眩しい日差し。
「なんだい……兄くん……?」
後ろから頓狂な声がした。
いつもより高いその声に、僕は普段の声がわざと押し殺している物ではないかと言う疑惑を更に深めた。そう、懐かしい……大好きな澄んだ声。僕の妹の声!
「千影!!」
「兄くん……朝食ならまだ……きゃっ!!」
叫びながら振り向き、僕は愛しい妹を抱きしめる。
妹は僕の腕の中で暫しの抵抗を試みた後、諦めたように体の力を抜いた。呆れたような声、僕の腕の中。
「どうしたんだい……兄くん? 今日の兄くんは随分と積極的だ……何か良いことでも……あったのかい?」
「ありもあり、大有り!! だって僕にはこんなに可愛い妹がいるんだもん!!」
「あ……兄くん……やっぱり……何か変だよ……今日の兄くん…………おや?」
妹は、千影は何かに気がついたように不審げな声を漏らした。
「兄くん……これは……何の冗談だい……? この……夏の最中に……こんな物を巻いて…………しかもこれ……手編みじゃないか……まさか……兄くん…………?」
「ふふ」
僕はにっこりと笑いながら、真っ直ぐに千影の目を見て言った。
真っ直ぐに目を見て言えた。
「友達から貰ったんだ……大事な、友達からね!」
一瞬だけ不安の影をよぎらせた妹は、やがて、僕につられたように微笑んだ。
「なんだか……妬けてしまうね……」
「それは光栄」
言った僕の頭を小突いて、千影は僕の体をそっと押しのける。
「さあ、兄くん……離してくれないといつまでたっても朝ご飯が出来ないよ……」
「おっと、それは失礼……じゃあ僕も手伝うよ!!」
妹は、何故だかすごく幸せそうに笑った。
「フフフ……期待しているよ……兄くん…………♥」
「ああ、期待してくれ!」
微笑みながら僕は妹の後に続く。
ふと視線を向けたサイドボードの上、花瓶の中のバラが初夏の日差しを受けて瑞々しく輝いていた。
……特別じゃないこの手を
特別と名付ける為の光