思いきって開け放った窓から吹き込む春の風には……少しだけ桜の花びらの香りが混じっているような気がした……。
その風がそよそよと私の髪の毛を揺らして……笑いさざめきながら通りすぎていくさまは……こちらの心まで喜びの色に染め……春の息吹に自然と胸が踊り出すようだ……。
「ふぁ……」
片手で口元を押さえながら……私は小さく欠伸をする……。机の上に広げた魔術書のページは……まだほとんど繰られてはいない……。
フフ……私とした事が失念していたよ……春の妖精達は……眠りの精霊達と……仲良しだって言うことをね……。
「はふ……」
やあ……そろそろ限界みたいだ……私の瞼が撒かれた砂の重みに耐えられなくなってきた……ふらふらと私は文机から離れ……ソファーに身を横たえる……。
「おやすみ……兄くん……」
ここにはいない愛しい人の名前を呼んで……私の意識は真っ暗な闇の中に落ちていく…………筈だった……。
…………ン。
……ポーン。
ピンポーン。
無粋な電子音が……私を夢の世界から引き戻す……。安息のお預けを食らった私の頭が……抗議をするようにズキズキと痛む……まったく……誰だい? 今日は誰も尋ねてくる予定は無かった筈なのに……。
もしも新聞や宗教の勧誘だったら……呪いの一つもかけたところで罰はあたらないね……そんなことを思いながら……玄関の戸を細く開く……。
「はあ……はあ……こんにちわ……千影ちゃん……」
……思いも寄らない人物がそこには立っていた……。彼女にしては珍しく……よっぽど急いでここまできたのか……肩で息をしながら……。
「咲耶ちゃん?」
私は慌ててドアチェーンを外し……ドアを大きく開く……。
「どうしたんだい、そんなに息を切らして……?」
「千影ちゃん!」
荒い息の中……彼女は答えた……。
「シニヨン結って!」
…………え?
……取りあえず私は……咲耶ちゃんを部屋の中に招き入れると……少し濃い目にいれた紅茶をふるまった……何時もならハーブティーを出すところなんだけど……自分の眠気覚ましも……兼ねていたからね……。
それにしても……なんでいきなり……シニヨンなんだい……?
「ああ、美味し〜い」
そんな私の気持ちを知ってか知らでか……咲耶ちゃんは能天気に紅茶を啜っている……。
「いやー、走ってきたから汗かいちゃって、紅茶の水分が私の細胞組織に染み込んでいくのが良く分かるわ〜♥」
「フフ……まだ沢山あるよ……お代わり……いるかい?」
私がそう言いながら……ガラス製のティーポットに手をかけると、
「うん!貰う貰う!」
咲耶ちゃんは食いつくように身を乗り出してくる……私は……なんだかおかしくなって小さくくすくすと微笑んでしまったよ……。
「で……」
人心地ついたところで……咲耶ちゃんに尋ねてみる。
「一応もう一度訊いておくけど……一体どうしたんだい……今日は?」
「それよそれ!」
言いながら咲耶ちゃんは音高くティーカップをソーサーに戻した……。
「今、時代はシニヨンなのよ!」
そして迷いの無い目でそう高らかに……宣言したんだ……。私は思わず頭を抱えた……。
「えーと……すまない……私の理解力がついて行っていないみたいなんだ……もう少し噛み砕いて……言ってくれると嬉しいんだが……」
「噛み砕くもなにも……私、シニヨンって一回やってみたかったのよ♥ でも、私自分でお団子結った事無いし……で、シニヨンといえば千影ちゃんでしょ?それで急いでここに来たわけ、ザッツオール、オーケー?」
「オーケー……」
私は観念した……。
咲耶ちゃんにちょっと待っている様に言いおいて……自分の部屋からブラシやヘアピンを持って戻ってくる……。ソファーに大人しく腰を落ち着けた咲耶ちゃんの後ろに回り……
「それじゃあ……失礼するよ……」
そう言って私は……咲耶ちゃんのツインテールの房を解きにかかる……。指先に絡み付く滑らかな……咲耶ちゃんの色素の薄い髪の毛……ぱさり、と音を立てて背中に垂れる……。
片側だけが解けた髪にそっと覆われた……項の白さに思わずドキリとする……。綺麗だな……咲耶ちゃん……。
私の鼻腔を柔らかな香りが擽る……うっすらとかいた汗の匂い……それに混じるシャンプーの香りと……もう一つ……。
「あ……」
もう片方のツインテールの房を解きながら……私は思わず声を漏らす……。
「どうしたの?」
首を倒して私の顔を下から仰ぎ見るようにして……咲耶ちゃんが私に尋ねる……。
「うん……この前の誕生日にあげた香水……使ってくれているんだね……」
「当然じゃない!」
解いた髪と……見上げる目線の所為で少し見馴れない顔をした咲耶ちゃんはそう言ってにっこり笑う……。
「大好きな千影ちゃんに貰ったんだもん!大事に使ってるわよ!」
「あ……ありがとう……」
その笑顔が眩しくて……その気持ちが嬉しくて……でも口下手な私は……少し視線を反らすようにして……どうにかそれだけ口にする事が出来た……。
沈黙を誤魔化すように……私は手先の作業に集中する……ブラシで梳かした髪の毛をヘアピンで留めて……目の粗いネットの中に纏めてお団子を作る……。
フフフ……なんだか何時もやっている作業なのに……自分じゃなくて他の人にしてあげるのだと……随分と勝手が……違うものだね……。
最後に纏めたお団子から毛先を引っ張り出して……私風のシニヨンの出来あがり……。
「お客さん……できましたよ……」
少し巫山戯て言いながら……手に持った手鏡に咲耶ちゃんの顔を映す……
「わお!」
咲耶ちゃんは両頬に手を当てながら……興奮したように叫んだ……。
「すごいすごい!ちゃんとシニヨンになってる!さっすが千影ちゃん!どうかな?似合うかな?」
矢継ぎ早に言葉を発しながら……咲耶ちゃんはずいっ、と私の顔を覗き込んでくる……。真っ直ぐな目線……私は思わず目を逸らしてしまう……。
「うん……凄く……綺麗だよ……」
「本当!? 嬉しい!」
咲耶ちゃんは私の手を取って……にっこりと笑う……。大人っぽい白皙の美貌を彩る……子供っぽい無邪気な微笑み……咲耶ちゃんの浮かべるそれは……まるで魔法のようで……誰もが心を奪われてしまうんだ……。そう……きっと……
「エヘヘ、双子双子ー♪」
咲耶ちゃんはそんな私の小さな葛藤など知る由も無く……私の頭を自分のそれに引き寄せながら……何時の間にか手に持った手鏡に向かって……ピースサインを送る……。その隣で困ったように微笑んでいるのが……私の顔……。
不意に鏡の中の咲耶ちゃんと……目が合った……。値踏みをするように私の顔を見て……一言……。
「そうだ!お礼しなくちゃ!」
「いいよ……別に……」
言いかけた私の言葉は遮られ……咲耶ちゃんの口元が悪戯っぽく歪んだ……。桜色の唇が……予想もしていなかった言葉を紡ぎ出す……。
「そうだ!ツインテールにしてあげる!」
「ええっ!?」
「遠慮しなくて良いわよ!今、流行の最先端はツインテールなんだから♥」
……ついさっき……時代はシニヨンだと胸を張っていたような気がするのは……私の記憶違いかい……?
しかし私は……そんな不条理にあっけなく流されて……咲耶ちゃんに肩を掴まれて……場所を交代してしまう……。
「へえ……こうなっているんだ……」
不意に耳元で咲耶ちゃんの声……。甘い吐息が私の首筋を擽る……。シニヨンが軽く持ち上げられる感触がしたかと思うと……意外に手際よく……咲耶ちゃんは私のシニヨンを解く……。
「千影ちゃん……髪、綺麗よね〜♥」
ブラシで優しく私の髪の毛を梳きながら……咲耶ちゃんはうっとりとした口調でそう言った……。
「そ……そんなこと……」
「あるわよ」
私の言葉を素早く遮って……見せつけるように私の髪を一房……掌に掬って体の前に垂らす……。
「うっすらと菫色で……黒魔術とか言ってるくせに天使の輪はできてるし、それに……とっても良い匂い♥」
背中に柔らかなものが押付けられる感触……。私の体に回される両腕……咲耶ちゃんは私の髪の中に顔を埋めていた……。
「さ……咲耶ちゃん……!?」
突然の事に硬直する私の体……正面を見据えたまま……私は……どうにか口を動かす……。
「は……恥ずかしいよ……」
「ウフフ、もう、千影ちゃんったら照れちゃって可愛い〜♥」
ゆっくりと私の髪から顔を上げる気配……「でも、本当だよ」……耳元で小さく囁くと……咲耶ちゃんは私の髪の毛に手を戻した……。
器用に小さな三つ編みを二つ作ると……左右にわけた髪の房を……その三つ編みをリボン代わりに結んで……ピンで留める……。
「できあがりっ♥」
ぽん、と肩を叩かれて……学芸会の子供みたいに緊張していた……私の体が柔らかさを思い出す……。視界の端で揺れる二つの髪の房……。
「きゃー♥可愛い!可愛いよ、千影ちゃん!」
咲耶ちゃんがはしゃいでぴょんぴょん飛び跳ねながら……手鏡を私に差し出してきた……私は……思わず息を呑む……。
手鏡の中の……見慣れた顔……見慣れない髪……。普段と違う髪形は……私を何時もよりずっと……幼く見せていた……。
「変じゃ……ないかな……?」
少し不安になって尋ねた私を……咲耶ちゃんは軽く笑いとばす……。
「何言っているのよ!もう、可愛い!ああ、ぎゅって抱きしめたくなっちゃう!」
「……もう……しているじゃないか……」
きつく抱きしめられたうえに……咲耶ちゃんに頬擦りをされながら……私は小さく声を漏らす……。
不意に、至近距離で目が合った……。良い事を……そして私にとっては恐らく悪い事を思いついたらしい小悪魔の笑みが咲耶ちゃんの顔に浮かぶ……。
「そうだ!せっかく髪型もとりかえっこしたんだから、服も交換して見ましょうよ!うん、そうしましょう!」
「え?…… さ……咲耶ちゃん……!? ちょ、ちょっとまって……」
…………あ。
……姿見の前に二人の女の子が立っている……。
一人は髪の毛をシニヨンに纏め……ゴスロリ風の衣装に身を包み……挑戦的な目線を自分自身に投げかけている……。
もう一人は青基調の若草学院中等部の制服に身を包み……ツインテールの髪の毛を背中に垂らし……少し恥ずかしそうにもじもじしている……。
「フフフ……お兄様……お兄様と私は……必ず結ばれる運命……」
シニヨンの女の子が不意にそう口を開く……。ツインテールの女の子は……それを聞いて一瞬眉を顰めると……続けて口を開く……。
「わ、私の兄くんへのラブは誰にも負けないんだから!兄くん、ラブよっ♥」
一瞬流れる沈黙……。
やがて……
「ぷ」
「フフ……」
「あははははっ!千影ちゃん可愛い!似てる似てる!」
「フフ……咲耶ちゃんこそ……まるで私の生き霊が取りついたみたいだったよ……」
女の子達……私と咲耶ちゃんは手を取り合って笑い合う……。ひとしきり笑って……何かを思いついたらしい咲耶ちゃんは……急に真顔になった……。
「こうしちゃいられないわ!行くわよ、千影ちゃん!」
突然咲耶ちゃんは私の手を取る……。
「行くって……どこへだい……?」
「決まってるじゃない!」
即答して咲耶ちゃんは微笑み胸を張る……無邪気なあの微笑み……誰もを魅了して止まないそんな微笑み……。
「お兄様のところへよ!」
……そうか……。
私は何か分かったような気がする……。咲耶ちゃんの……咲耶ちゃんに……この微笑を浮かべさせる不思議な力の……元にあるものは……それなら……きっと……。
「フフ……」
私の口元が自然と綻んだ……。
「そうだね……行こう!」
どうやら彼女の予想以上に力強い私の言葉に……咲耶ちゃんはびっくりした様子で目を白黒させた……。
「良い顔で……笑うじゃない」
私の可聴域ぎりぎりのそんな呟き……。
「行くよ!」
私の手を引っ張って咲耶ちゃんは走り出す……。
姿見の中、つられて走り出すツインテール……。
その顔に浮かぶ微笑みは……そう……前を行く姉妹とそっくりだった……。
FIN