小野不由美&十二国記その2

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>>564 2chであるのをイイコトに打ち込み。誤字脱字脱行はカンベン
 いま興味のあることは(中略)ここ数年、一番興味があるのは、小説についてだということになります。
 どういう小説が面白いのだろう、とか、そのために何をする必要があって、何をしたらいけないのだろう、とか、面白い本を読めば何とか自分も同じようなことができないか、つまんない本を読めば、どこが失敗しているんだろう、これを面白いと言う人だっているはずだけど、それを誉められない自分の小説観って何なのだろう、とか、果てはゲームをしてても映画を観ても、いいなと思うと、何とか小説に応用できないだろうか、とか。
 わたしはもともと、作家になるなんてことは念頭になくて、本当にたまたま「作家になってしまった」わけで、本当だったらデビューする前に自分なりの小説に対するポリシーとか、理想なんていうものがそれなりにできているものなのでしょうけど、それがちゃんと作られてなかったし、それどころか、そもそもそういうことが念頭になくって、それで、いまさらのように悪あがきをしているんだ、しなければしょうがないんだ、という気が自分でもしています。
>>570
 ひょっとしたら、そう思うのは環境のせいかもしれません。一部ではご存知の通り、わたしは京大ミステリ研の出身で、先輩後輩がこぞって作家になったわけですけど、その彼らがみんな、そもそも作家になりたかった人たちで、ほとんどがミステリというジャンルにすごく強いこだわりがあって、個々に理想とするミステリ像というものを持っていて、それを一途に追い求めているようなところがあるのです。対するわたしは、その中にあって、徳にジャンルに対するこだわりもなければ、コレという理想像も持たなくて、ほとんど無節操に何でも来い、という状態なので、実を言えばそういう自分にかなりのところ劣等感があったりします。
 曖昧模糊とした理想像を身を削るようにして追いかけている彼らを見ると、そういうのって、格好いいな、とすごく憧れるわけですけど、なのに自分はというと、その場その場で気の向くまま、軽佻浮薄というか、行き当たりばったりというか。そういう自分を省みるたびに、なんかとっても格好悪いなあ、と思ったりして。
 そう思いはするのですけど、実際のところ、そもそも読者としてのわたし自身が無節操で、ジャンルを問わず何でも来い状態で、自分が書く段になっても、アレが良かったコレが良かったと、読者としての自分に引きずられてしまうのでどうにもなりません。
>>571
 面白いホラーを読めばホラーを書きたくなるし、面白いミステリを読めばミステリを書きたい。デビューした頃というのは、ちょうど自動文学にハマっていた時期で、ルイスとかランサムとかケストナーみたいなことがやりたいとか、思うだけは思っていたのですけど、のちにジュネものなんか台頭してくると、こういうのもいいよね、やはり小説は作者の書きたいというパッションだよね、とか。そんなことを思っていたくせに、ジョイスの『フェネガンズ・ウェイク』とかピンチョンの『重力の虹』なんてものが出るものだから、ああやっぱりコレだ、とか思ったりして。エリスの『アメリカン・サイコ』を読めば、こういうのが書きたいと思うのだけど、一条理希さんの『ネットワーク・フォックス・ハンティング』を読むと、こうでなきゃ、と思ってリして、−−−なんだそりゃ、ぜんぜん方向性、逆やんけ、みたいな。
 こうやって見てみても、我ながら無節操の極みみたいで、情けないことです。個人的には、職人気質なんて言葉にすごく憧れがあって、「生涯一××」みたいな求道僧のような生き方をしてみたいもんだと思ったりするのですが、どうもきっちり百と八つの煩悩があるようで、どうにもなりません。
573安原少年がマジ年下名無し:2001/05/06(日) 02:32
十二国全盛でGHの影が薄いのが淋しい。
ちょこっと話題が上ってたんで追従。

ねたばれです。
安原少年「悪夢」で、例の事件のこと「国会図書館で裏を取った」
(下巻P143)って言ってるけど、トシ計算したら未成年では?
国会図書館は成人しか利用できないはず。安原少年チューロウ?
高校でダブり?病弱で休学・・・は無いだろ。
妥当な線として、アルバイトを雇ったという前例もに倣ったか。

嗚呼、国会図書館余裕で使えるよ自分・・・。年齢の話題でスマソsage。
>>572
 なのでせめて、場当たり的に書くとしても、一作一作はきちんとやろうと思うのですけど、実際に書く段になると、力及ばないことがあったり、緊張の糸が切れて後で振り返ると「流してる」感じがする箇所があったりと、それでなくても情けない有様で、そのうえ書いている最中にも、こうのほうがいいんじゃないか、もっとこうするべきなんじゃないかと邪念がどんどん涌いてきて、結果として毎度毎度、なんとか折り合いをつけて丸め込んで、かろうじて終わらせる、という気がしてなりません。もちろん、それはその時点での、自分なりの最善であり、ひとつの結論ではあるのですけど、けれども決して核心ではないという意味で、やっぱり不甲斐ない気がしてしょうがないのです。
 そういうわけで、だいたい一作、書き終えると、しばらくは猛烈に落ち込んで、「これでは読者に合わせる顔がない」とか思って枕を抱え込んでうめいていたりしたあげく、だいたい、自作の読者には作者はなれない、という世の中の仕組み自体がよろしくない、などと神をも恐れぬ八つ当たりをしたりするのですけど、実際のところ、せめて読者としての目で自作を読むことができれば、もっとどうするべきか分かるだろうに、と思わずにいられません。
>>573
 わたしはどうしても、自作の読者になることができません。自作を読むこと自体は簡単なのですけど、読者として読むことができないのです。小説は言葉の集積によって読者に情動を起こすための装置ですが、自分で自分の本を開くと、そこには殺伐とした言葉の羅列だけが存在しているように見えます。それはちょうど、無数の歯車によって組み立てられた機械の内部を除いているときの気分に酷似しています。それぞれの言葉の意味はわかる、装置の中でどういう役割を担っており、その言葉がどう動いてそれが他にどう影響しているのかは分かる、それこそ自分で書いたのだし、他ならぬ自分が意味を持たせ役割を持たせ、働きを了解してそこに置いたのですから、文字通り手に取るように分かるわけですが、そのために装置の構造は分かっても、装置自体が正しく読者に働きかけているのかどうかは、かえってさっぱり分からなくなってしまうのです。
>>574
 いっぱつきおク喪失になりたい、とか、思い切って二重人格になりたいとか思ったりするのですが、そうやって自作を読んでも作者としての自己に戻ったとたん、得てして読者であったときの自分の感覚や記憶などというものは失われてしまうわけで、結局のところ元の木阿弥だと思うと、認識というものの虚無性にまで落ち込む羽目になり、自暴自棄になったあげく書物に逃避して、でもって根が単純なものだから、面白い本に当たると一気に浮上して前向きになったりする。そういうことだからいつまで経っても無節操なんです、自分でも分かっているんです、ええ。
 などと複雑怪奇なことを考えてしまうのは、某シリーズの頓挫のせいかもしれません。自分だけは読者になれない、だから読者の気持ちはわからない。分からないなりに想像して、なんとかいただいたお代と時間に見合うだけのことをしようと思うのですが、実際にそうやって選択したことと、読者が期待していたものが容易にどこまでもずれてしまえるのだという事実は、そもそも理想に対して確信を持たない軽薄な作者を狼狽させるには充分な出来事だったのでした。
>>576
 もちろん、読者が期待を裏切られたと感じた以上、その責めは作者が負うべきで、これについては何の否やもないのですが、問題は期待外れだったと否定されると同時に、別の方からは強い肯定をいただいてしまったということにあります。同一作品の同一箇所に対して、否定と肯定が同時に寄せられたりして、どうしていいのか途方にくれてしまった。自分では良かれと思って行った選択、その選択の是非は自分では検証できないけれども、実際に良かったと肯定してくれる人もいる。なのに絶対こういうことは許さない、と否定する読者もいて、「許さない」という強い拒絶に慌てふためいて正すのは、単に自分が媚びているだけに思えるし、肯定してくれた人にだって申し訳ないし、さりとて肯定してくれた人の存在を楯にとってこれで良かったと言い切るのは、単に自分にとって都合の良い評価をかき集めて保身に走っただけのことのように思われます。こういう場合、作者が自己の確信にもとづいて選択するしかないと分かっていても、その確信自体がないというか、無節操を絵に描いたような状態なので、泥沼の中に足を踏み込んでしまいました。どうやら今のところ、まだ抜け出せていないようなので、しまった、こういう時のために蜘蛛の一匹でも助けておくべきだったと後悔することしきりです。
>>577
 読者は多様で、読者の嗜好はなお多様です。せめて筆が早ければ、多様な期待に対して個別に応えていくこともできるのでしょうが、つい余計なことを考えてしまうので、結果として遅々として進まず、そうなると今書いている一作で、なんとか最大限の読者の嗜好に応じられなければならないという気がしてしまって、なのにこれでいいのだろうかと悩んだ挙句、「この商売、根本的に向いてないのじゃないか」と思ったりして、いっそひと思いに辞めてしまおうかと脳裏をよぎらないでもないのですけど、辞めてどうするかと言うと、勤務時間のハッキリした職場を探して余暇で小説を書こうと思っているあたり、そもそも業が深いです。
>>578
 そういう作者の七転八倒の産物を、可愛がってくださる読者がおられるというのは、奇蹟のような気がします。「面白かったです」と言っていただけば、ああ、良かったと思う反面、こう言ってもらったのだから、次作で期待を裏切ることは売る去れないのだぞ、ジサクでこそは、この好意に報いることができる、と胸を張って出せるようなものを書かなくてはならないのだぞ、などと思って、誉められても貶されても、やっぱり泥沼にはまりこんでしまうのですから、ひょっとしたら何のかんのと言いながら、実は泥沼が好きなのかもしれません。嫌だなあ
 ……などというようなことを考え、あぶあぶと浮き沈みを繰り返しているのが、近年来の趣味のようです。あんまり趣味というほど楽しくはないと自分では思うのですが、考えることを止められないので、一番興味があることではあるのでしょう。
>>579
 実を言うと、わたしは専制君主というものが好きじゃありません。好きではないくせに十二国記などという専制君主制の世界を、しかも得てして専制君主を主人公にして書いているのは、実はそのへんの答えを探しているからなのかもしれないです。作者は作品に対して絶対的な専制君主です。制度を整え秩序を作って民である読者に奉仕しようとするわけですが、必ずしもそれは民の望みと一致しない。そのへんのズレに感ずるものがあるからこそ、毎度毎度、民の側ではなく王の側から物語を書き起こそうとしてしまうのかもしれません。
 だとすると、結局のところ自分というものを探しているのかもしれなくて、と、いうことは今もっとも興味があるのは自分だという話になってしまい、これは我ながらすごく嫌でたまらないんですが、その反面、自己の在り方を探している、ということではあるわけでして、それはそれでナカナカ求道者らしい有様になっているじゃないかと、ひとりエツに入ったりもするのですけど。(おわり)
sage雑談の邪魔をして失礼した。では。