ブギーポップ

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406名無しさん@そうだ宇宙にいこう
そういう虚無感みたいなものが、ライトノベル主流の「濃さ」
(星くずやリングテイル、猫地球にダディフェイスはすごくいいセレクトだ)に対する
アンチテーゼとして新鮮だったよ>398
ブギーにそういう新しさがあるのは「夜明けの〜」までだけど。

1作目「笑わない」が革命的だったのは、ライトノベル主流の「大きな物語」がつねに
キャラクターから遠いことだった。宇宙人は出るわサイコキラーはいるわ美少女探偵は
いるわ。
でもそういう「濃さ」、ライトノベルにおいては当然存在しておかしくないギミックは、
現実社会に生きてる読者(とくにすれた読者)にとってはけっこう恥ずかしい。
そこにはなんというか、距離感がある。

ブギーポップというシリーズは、その「読者と大きな物語の距離感」と、「小説内における
キャラクターと物語の濃さ(陰謀とか宇宙人とか)の距離感」がほぼ等しいというシステムを
構築したところに、その真の凄さがある。

つねに読者に対して「物語という虚構に関与できない哀しみ=ノスタルジー」を与えることができる。
そしてそのかわり、「笑うのはぼくらの仕事なのだ」という「生きかたの指針」みたいなものまで
提出できる。
おれがブギーを評価するのはここ。つまり、安く手軽な「ライトノベル」というものの裏側を
商品にできるシステムの斬新さなんです。

「夜明けの〜」までのブギーにはそういう「平凡だったり、ちょっとヘンな力をもっていても
物語の中枢に関与できない人々(パンドラ。最高傑作)の哀しみ」があった。「ペパーミント」以後の
シリーズは単に「能力者の悲しみ」というヴォクトの『スラン』的な、いってみれば使い古しの
テーマに流れているような気がするけれども。
ブギー第一部(と言わせてもらおう)はある種の古株のおたく、ライトノベル読みには
「かなしみ(とそれを引き出すシステム)」というようなもので愛され、うぶな読者には
「なんだかぼくらの悩みに近いかも」という部分がうける、んだろう。