【狼と香辛料】支倉凍砂(はせくらいすな)スレ 56
746 :
堕花雨:
昨日つづきで少し説明しておいてやると。
所謂、原理主義者というものに対する誤解を解いておいてやろう。
原理主義者とは、特定の宗教や経典をひたすら絶対視する人間の事ではない。
そうではなくて、宗教的原理をひたすら守る人間の事だ。
判らないって?
具体的に言えば、宗教信者は清らかに正しく生きるべきだとかそういう
根本的原理を絶対視する人間の事を原理主義者と言う。
極端な事を言うならば、キリスト教徒以外にも、無神論者にすら、絶対神
に選ばれた人間というものは存在する。
例えば、東京から大阪に行く場合、最終的に大阪に着くのなら、途中経過が
どうであろうと問題ないという事、それが原理主義者の考え方だ。
これは、キリスト教の原理主義の祖ともいえる。支倉先生が参考文献として読んだ
神の国を書いた、アウグステュスもはっきり言っている。
「目的地に着く為に、途中、敢えて道を踏み外す事もあり得る」
と。
そして事実彼はしばしば聖書の考えを全く無視して踏み外す。
要するに、キリスト教原理主義とは、別に聖書やキリスト教を絶対視する人を
意味しない(無論、絶対視する人間の中にも選ばれた人間はいるのだろうが、
それがすべてではないという事だ)。
無論、宗教的にひたすら寛容であるとい訳でもない。
通常、我々は異教に容赦しない。なぜなら、目的地に着く為に幾ら色々な
乗物を利用してよいと言っても、筋道通りにいくに越した事はないからだし。
また、誰だって、自分自身よりも他者に対して不寛容なのは当たり前の事
だからだ。
747 :
堕花雨:2008/10/31(金) 08:04:47 ID:OzTL7HWW
要するに、選ばれた人間なら、仏教徒になろうが、イスラム教徒にな
ろうが、無神論者になろうが、何をしても許される、という事なのだ。
逆に言うと、選ばれていない貴様らのような凡人は、幾ら熱心にキリスト
教を絶対視して信じようが、救われる事はない。
これで原理主義者とはなにか、よく判ったと思う。
748 :
堕花雨:2008/10/31(金) 08:06:03 ID:OzTL7HWW
もっとはっきり言うと、選ばれた人間ならば、神自身に敵対してすら
許される。
そういう事だ。
749 :
堕花雨:2008/10/31(金) 08:11:52 ID:OzTL7HWW
つまり、キリスト教的に言うならば、救われる為に信仰など別に必要
ない、という事なのだ。
逆に言うと、「キリスト教原理主義者」とは、自分で望んで信仰を持ったり
捨てられるような、いい加減なものではない、という事。
信仰を持つ事、キリスト教徒である事に、理由や意味を求めている時点で
既に三流、偽物という事なのだ。
意志や目的を超えた、絶対的な何か。文字通り、神の分身とも言える人間を
超えた存在。それがキリスト教原理主義者であり、選ばれた人間という事なのだ。
彼らには、信仰を捨てる事も、持たない事すらはっきりと許されている。
聖書を燃やそうが、破ろうが、咎めなどはないのだ。
750 :
堕花雨:2008/10/31(金) 08:15:01 ID:OzTL7HWW
言わば、生まれた事自体、存在する事自体が、キリスト教であり、救い。
救いというよりも、それを超えたもっと別のなにか。
それが、我々、絶対神によって選ばれた人間というものだ。
そう、聖書や、教義が定義した神など別に必要ではない。
「私が、私こそが、キリスト教なのだ!」
そう言い切る事の出来る、神自身の化身こそが、真に選ばれた人間と
いう事。
彼らが手に取った場合、ポルノ雑誌すら、聖書と等しい書物となる、という
事なのだ。
これで、キリスト教原理主義者とはなにか、よく理解出来た事と思う。
751 :
堕花雨:2008/10/31(金) 08:17:41 ID:OzTL7HWW
表面上の宗教や教義や聖書や神などに捕らわれる小さい人間を、キリスト教
原理主義者などとは呼ばない。
彼らが定義したものが神となり、彼らが定義したものが真理となる。
要するに、そういう事なのだ。
ま、もっともお前ら凡人に言ったところで、本当によく理解できるのか
甚だ疑問ではあるのだが。