作中人物は作者が右を向けば右を向き、左を向けば左を向き、救われろと命ずれば救われるも
のでは決してありません。彼らは、何度も申しましたように、我々と同様、生きた人間であり、
また、そうでなければならないのです。我々と同様、絶えず善とともに悪をも選ぶ自由を持ち、
罪と闇との中に身を堕していく悲哀も孤独も持っているのです。神でさえ、この人間の善悪の自
由を奪うことはできませんでした。いわんや、作家が作中人物の自由を左右する権利はないので
す。
さきほど、ボクはテレーズ・デスケルウを書きながら、モーリヤックが彼女の孤独と闇とを、
その小説の中で、どうしても救うことができなかったという創作体験をお話ししました。みなさ
んはもう、それがなぜであるか、おわかりになって頂けたことと思います。
つまりモーリヤックはテレーズ・デスケルウの自由を作家として尊重したのです。宗教者とし
て彼は自分の創ったこの女性の救済をねがいながら、それを拒みつづける彼女の運命や心理をど
うしてもまげることができませんでした。
遠藤秀策……もとい周作がこう書いてるが、作中人物の行動というのは