>>182 本日,みなさんが世界最高の大学から卒業する式に出席できることを
光栄に思う。私自身はカレッジすら卒業していない。
実際,私にとってこれがカレッジの卒業式にもっとも接近した日だ。
今日,私自身の人生から三つの話をしたい。それだけだ。
なにもたいしたことはない。三つだけだ。
最初の話は点をつなぐことについてだ。
私はリードカレッジを最初の6ヶ月目で退学(ドロップアウト)した。でも,それからもう18ヶ月もぐりとしてうろちょろしていた。
ではなぜ退学したのか。
私が生まれる前の話になる。私の生みの母がまだ若く未婚の大学卒だった。
彼女は私を養子にだすことを決心した。彼女は私は大学卒に受け入れられる
べきだと非常に強く考えていたので,私が生まれるときには法律家夫婦に
受け入れられるようすべてが手配ずみだった。でも直前になって彼らは
女の子が欲しいって決めた。それでちょうど次の順番待ちだった私の両親の
ところに夜中に電話連絡がいった。「のぞんでいたのとちがって男の子
だったんだけどそちらで欲しいですか?」「もちろん」 生みの母は,
私の母が大学を卒業しておらず,父も高校をでていないことを後になって
知った。それで彼女は書類に署名するのを拒否したのだが,必ずいつか私を
大学にやるという約束で数ヶ月の後に署名した。
そして17年後大学へ入った。しかし世間知らずにも私はスタンフォード並み
に値段の高い大学を選んでしまい,労働階級の両親は蓄えのすべてを学費と
して支払わなくてはならなかった。6ヶ月の後,私は大学になんの価値も
見いだせなかった。これからの人生でなにをしていきたいのかも
わからなかったし,大学がそれを見いだすのに役立つようには思えなかった。
そして私は両親のすべての蓄えを使っていた。それで退学してすべては
うまくいくって思うことにした。当時は不安に思えたけれど,今
振り返ってみれば人生で最良の決断だった。退学したことで興味のない
クラスに行かなくてよくなったし,おもしろそうなクラスに
もぐりこめるようになった。
ちっともロマンティックなんかじゃなかった。寮に部屋も持って
いなかったから友達の部屋の床に寝た。コーラ瓶を集めて5セントの
デポジットをもらい,食べ物を買った。日曜日の夜になると週に一度のいい
食事にありつくために7マイル先のハーレ・クリシュナ教の寺院に歩いて
いった。そして当時,興味や本能のおもむくままに偶然発見したいろんな
ことが後になってとても重要な意味をなすようになった。
一つ例をあげよう。
当時,リード・カレッジはたぶんこの国で最高のカリグラフィ教育を
やっていた。ポスターから引き出しのラベルまで,学校中すべて
カリグラフィで美しく書かれていた。すでにドロップアウトしていた私は
普通のクラスをとらなくてよかったので,カリグラフィのクラスをとろうと
決めた。そしてそこで,セリフ書体とサンセリフ書体,隣り合った文字の
組み合わせによってどのように字間が変化するのか,タイポグラフィを
すばらしくする要素はなんなのか,について学んだ。 カリグラフィは
美しく,歴史的で,科学が説明できない意味において芸術的に繊細なもの
だった。そして私はそれをおもしろいと思った。
実際の人生においてこれらの知識は役立ちそうに思えたことすらなかった。
だけどそれから十年後,私たちが最初のマッキントッシュを設計している
とき,この経験が役立ったのだ。私たちはそのすべてをマックに
埋め込んだ。マックは美しいタイポグラフィを実現した最初の
コンピューターだった。もし私があの時あのコースに入っていなかったら
最初のマックはいくつもの書体を装備していなかっただろうし,
プロポーショナルに字間調整されたフォントもなかっただろう。
そしてウィンドウズが当時のマックのコピーである以上,おそらくは
どのPCもこれらの機能を備えていなかっただろう。もし私がドロップアウト
していなかったら,私はカリグラフィのクラスにははいらなかった
だろうし,そしてパーソナルコンピューターが今日のようなすばらしい
タイポグラフィを備えることはなかったかもしれない。もちろん私が
カレッジにいたときにこれらの「点のつながり」を見通すことは
できなかった。しかし十年後には非常にはっきりと振り返ることができた。
もう一度言う,このようなひとつひとつの「点のつながり」を予見する
ことはできない。あとから振り返って気づくことしかできないのだ。
つまり,あなたたちはひとつひとつの「点」があなたの将来になんらかの
かたちでつながっていくのだということを信じなくてはならない
ということだ。なにか,ガッツ,運命,人生,カルマ,なんでもいい,
なにかを信じるべきだ。この生き方が私を裏切ったことは一度もないし,
人生の多くを変えてきた。
二つ目の話は愛と失敗についてだ。
私は幸運にも早くにやりたいと思うものを見つけた。二十歳のときに
ウォズと私は私の両親のガレージでアップルを始めた。がんばって働いた。
そしてガレージにたった二人だったのが,十年後には4000人以上の従業員を
かかえた20億ドル企業になっていた。私がちょうど30になる1年前に我々の
最高の製品マッキントッシュを発売した。そして私は解雇された。
どうやったら自分が始めた会社から解雇されることができるんだ?
アップルが大きくなったので我々はある人物を,当時の私には一緒に会社を
やっていくのに非常にすばらしい人物だと思えた人物を,雇った。最初の
一年はすべてうまくいった。でも,我々の将来へのビジョンは食い違って
いき,ついにはうまくいかなくなった。そして,役員達は彼の側についた。
それで私は30で解雇された。だれもがこのことを知っていた。私の
社会人としてやってきたすべてが失われた。まったくひどいできごと
だった。
数ヶ月はなにをしていいかわからなかった。上の世代の起業家たちを
失望させただろうと思った。彼らから渡されたバトンを落としてしまった
のだ。デヴィッド・パッカード(訳注:HPの創業者)とボブ・ノイス
(訳注:インテルの創業者)に会ってこのひどい失敗を謝ろうとした。
私の失敗はだれもが知っていた。シリコンバレーから逃げ出そうとすら
思った。しかし少しずつなにかがわかり始めてきた。私はそれでも
それまでやってきたことを愛していた。この事件はこの気持ちを少しも
変えはしなかった。私は拒否された。しかしまだやりたい。だから私は
もう一度始めることにしたのだ。
当時はわからなかったがアップルから解雇されたのは私にとって最良の
できごとだったのだ。成功による重圧は,あまり確信の持てない初心者の
気軽さへと変わった。このできごとが私を人生でもっとも創造的な期間の
ひとつへと向かわせてくれた。
その後5年間の間に私はネクスト,それからピクサーという二つの会社を
創業し,後に妻となるすばらしい女性と恋に落ちた。ピクサーは世界
最初のコンピューターアニメ映画「トイストーリー」を制作するに至り,
今では世界で最も成功したアニメーションスタジオだ。そしてある印象的な
できごとがあって,アップルはネクストを買収し,私はアップルに戻った。
我々がネクストで開発した技術はアップルの今日の復活の核心となって
いる。そしてローレンスと私はすばらしい家族をつくりだした。
もしアップルを解雇されていなければこれらはすべて起こっていなかったと
断言できる。本当に苦い薬だったが患者にはそれが必要だったのだ。
時として人生は頭をレンガで打ちつけてきたりする。信念を失うな。
私が進み続けられたのは私が自分のやっていることを愛していたからだと
確信している。あなたたちは愛するものを見つけなくてはならない。
それは愛する人を見つけるのと同じように重要だ。仕事は人生の大きな
部分を占める。そして真に満足を得る唯一の方法はすばらしい仕事だと
信じることをすることだ。そしてすばらしい仕事をする唯一の方法は
あなたがしていることを愛することだ。もしまだ見つからないのなら,
探し続けなさい。あきらめるな。他の重要なことと同じで,見つけたら
きっとわかるはずだ。そして,それはすばらしい人間関係のように,
時間が経つにつれただよりよくなっていく。だから,見つかるまで
探し続けなさい。あきらめるな。
三つ目の話は死についてだ。
17歳のときにこんな文を読んだ。「毎日を人生最後の日であるように
生きればいつか正しい結果が出る」 印象的だった。それから33年間私は
毎朝鏡に向かって「今日が人生最後の日だったら,今からやろうとしている
ことをやりたいとおもうだろうか?」 そして「ちがう」と何日にも
わたって思う時は何かを変えなくてはいけないときだ。
私が知る限り「すぐに死ぬ」と考えるのは人生における重要な決断を
するにあたって最も有用な方法だ。なぜなら,無用の期待,プライド,
恥や失敗の恐怖,そんなものはみな死を前にすれば本当に重要なことだけを
残して消え去ってしまう。あなたはすでに裸なのだ。あなたの心に従わない
理由などない。
一年ほど前にガンを患った。朝7時半に検査をうけたらはっきりと膵臓に
腫瘍があった。私は膵臓がなにかすら知らなかった。医師はこの腫瘍は
ほぼ間違いなく治療不可能で,3〜6ヶ月以上生き延びることは期待
できないといい。家に帰ってやりたいことを順にやりなさいと,慣例通りに
アドバイスした。つまりこれは子供達にこれから10年間で伝えようと思って
いたことすべてをたったの数ヶ月で伝えるという意味だ。つまりすべてを
間違いなくやり遂げ,家族にとってできるだけ問題が少ないようにしなさい
という意味だ。そしてさよならをいうという意味だ。
そしてさらに検査を受けた。生検で彼らは内視鏡を胃を通し腸に入れ,
膵臓に針をさして腫瘍の細胞を採取した。私は麻酔をかけられていたが,
手術で治る種の非常にまれな膵臓がんだと判明して,それまで顕微鏡で
細胞を調べた医師が大声でわめきだしたのを,一緒にいた妻が伝えて
くれた。その後私は手術をうけ,今は問題ない。
あれが私が最も死に近づいた瞬間だった。今後数十年はそうであって
ほしい。この経験の後,ただ,死が有用だが想像上だけの事柄だった
頃よりももう少しはっきりとあなたにこれを言うことができる。
誰も死にたくはない。天国に行きたい人々ですら死にたくはない。そして
死は我々全員にとっての終着地だ。そこから逃れた人間はいない。そして
そうあるべきだ。なぜなら死は生にとっての最もすぐれた発明におもわれる
からだ。死は生を変化させる執行者だ。古いものを立ち去らせ新しい
ものへの道をつくる。今ここで,新しいものとはあなた方のことだ。
しかしいつかそう遠くない将来にあなたもゆっくりと「古く」なり立ち去る
ことになる。劇的になって申し訳ない。しかしこれは真実だ。
あなた方の時間は限られている。他人の人生を生きて時間を無駄にするな。
他人の結論で生きるという独善に捕われるな。他人の意見に自身の内なる
声をかき消されないようにしろ。そして最も大事なこと,自身の心と直感に
従う勇気を持て。それらはなんらかの形ですでにあなたが本当になにに
なりたいのかを知っているのだ。他のことは後回しだ。
私が若い頃に“The Whole Earth Catalog”というすばらしい出版物が
あった。我々の世代にとってのバイブルのひとつだった。ここからそう
遠くないメンロ公園で,スチュワート・ブランドという男によってその
詩的な本はつくられた。60年代後半のことだ。パーソナルコンピューターも
デスクトップパブリッシングもまだない。すべてタイプライターとハサミと
ポラロイドカメラでつくられた。ペーパーバックでできた35年早い
グーグルみたいなものだった。理想主義的で,巧妙な道具とすばらしい
概念でいっぱいだった。
スチュワートと彼のチームは数号を発行し,ついに最終号を発行した。
70年代中頃のことだ。私はちょうどあなた方の年頃だった。最終号の
背表紙には,冒険的な人物であればヒッチハイクをするかもしれないなと
思わせるような,ある早い朝の田舎道の写真があった。そしてそのすぐ
下にこうあった。「どん欲であり続けろ。愚かであり続けろ」 それは
彼らが出版を終えるにあたっての別れのメッセージだった。どん欲で
あり続けろ。愚かであり続けろ。私自身いつもそう願い続けてきた。
そして今,新たに卒業するあなた方にもそうあってほしいと願う。
どん欲であり続けろ。愚かであり続けろ。
ありがとう。
以上