>>829 ごはんを食べる事にした。蜆汁がおいしかった。せっせと貝の肉を箸でほじくり出して食べていたら、「あら、」夫人は小さい驚きの声を挙げた。「そんなもの食べて、なんともありません?」無心な質問である。
思わず箸とおわんを取り落しそうだった。この貝は、食べるものではなかったのだ。蜆汁は、ただその汁だけを飲むものらしい。
貝は、ダシだ。貧しい者にとっては、この貝の肉だってなかなかおいしいものだが、上流の人たちは、この肉を、たいへん汚いものとして捨てるのだ。なるほど、蜆の肉は、お臍みたいで醜悪だ。僕は、何も返事が出来なかった。
無心な驚きの声であっただけに、手痛かった。ことさらに上品ぶって、そんな質問をするのなら、僕にも応答の仕様がある。けれども、その声は、全く本心からの純粋な驚きの声なのだから、僕は、まいった。
なりあがり者の「流行作家」は、箸とおわんを持ったまま、うなだれて、何も言えない。涙が沸いて出た。あんな手ひどい恥辱を受けた事がなかった。
それっきり僕は、草田の家へは行かない。草田の家だけでなく、その後は、他のお金持の家にも、なるべく行かない事にした。そうして僕は、意地になって、貧乏の薄汚い生活を続けた。