【6702】 富士通 【病気療養】

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262山師さん@トレード中
富士通社長「プッツン辞任」の真相
思い切った構造改革を打ち出した社長が突如辞任。引導を渡したのは、秋草相談役だった。

9月25日、富士通は社長の野副州旦(くにあき)が相談役に退き、会長の間塚道義が当面、社長を兼務すると発表した。
その夜の緊急記者会見で、間塚は「野副さんは構造改革を精力的に進めてきたのに……。残念だ」と語り、唐突な社長辞任の理由を「病気だ」と説明した。

しかし、それを真に受ける記者はほとんどいなかった。なぜなら野副は健康に人一倍気を使ってきたからだ。
常日頃、東京都中央区にある聖路加国際病院と神奈川県川崎市にある富士通川崎病院に通い、定期的に健康診断を受けていたのは、よく知られた話。
それが嵩じたのか、社長在任中に「これからは医療分野のIT化がビジネスチャンス」とまで言っていた。

相談役が後継社長を指名

野副は辞任を表明したその日、後任の間塚への引き継ぎもせず、早々と会社を去った。会社経営の連続性を無視し、「後は知らん」と言わんばかりの無責任な行動だ。
そもそも出社して自ら辞表を出したのだから、そんなに深刻な病状とは考えにくい。

「ことさら健康管理に注意を払っていた野副さんなら病気を予見できたはず。突然辞表を出し、引き継ぎの時間すらなく会社を去るというのは考えられない。何かあったのだ」と、
富士通社内で「野副シンパ」といわれる幹部は訝る。確かに辻褄の合わないことばかりだ。

25日朝、東京・汐留にある富士通本社で開かれた定例取締役会を前に野副は間塚を訪ね、「今後は治療に専念したい」と辞任を申し出た。
間塚は慰留したが、本人の意思は固く、その後に開かれた取締役会で辞任は了承された。間塚は同日の記者会見で、そのように説明した。

関係者によると、その後、取締役会で「空席の社長ポストは当面、間塚さんがやったらいいじゃないか」と取締役相談役の秋草直之が発言し、事実上の後継指名をした。
おかげで午前中には新しい富士通の業務執行体制が決まり、即座に公表された。何とも手際がよいのだ。

「(野副は)元気でやっていたので、後任なんて考えることもなかった。だから富士通の経営からは距離を置いていた自分が急場凌ぎで社長を兼務することになった……」。
間塚は会見で、そんな趣旨の説明をした。緊急事態であることを強調したかったのだろうが、その割には後始末が事もなく進められていた。

同日午後には「間塚会長兼社長体制」を固める幹部人事の内示が、複数の幹部クラスにあったことが、その証拠だ。「野副に遠ざけられていた人が復活した」(富士通関係者)

野副が辞任を申し出たその日、前任社長の黒川博昭は間塚に「グローバルにやっていくには富士通の経営理念をブレることなく徹底してくれ」とアドバイスした。
昨年、社長ポストを野副に譲った黒川は会長のイスに就かず、相談役に退いた。「その後は滅多に会社に来ることもなく、ほとんど隠居生活を送っていた」(富士通関係者)という。
その黒川が定例取締役会の開催日だったとはいえ、この日に限って出社し、間塚を激励したというのも解せない話だ。

前出の「野副シンパ」の富士通幹部は「野副さんが突然辞めたというけれど、それにしては準備が整いすぎていることばかり」と不思議がる。

昨年6月末に社長に就任した野副は、相当な勢いで富士通の構造改革に乗り出した。赤字続きだったハードディスク駆動装置(HDD)事業は最終的に東芝へ売却。
半導体事業はNECエレクトロニクスとの提携を模索したものの、NECエレが富士通の秋波を袖にして日立製作所と三菱電機の合弁会社であるルネサステクノロジと組むことを決めるや否や、
台湾のTSMCとの提携に踏み切った。
263山師さん@トレード中:2010/03/08(月) 23:42:43 ID:OjbFYZf50
HDDと半導体は、いずれも歴代社長の秋草、黒川が最終的な結論を出すことのできなかった懸案だった。
2人がためらったのはHDDも半導体も当時の部門トップが赤字を出すたびに「もう一回チャンスをくれ」とせがんだため。情にほだされ、赤字の垂れ流しを見逃し続けたのだ。

それを野副は「事業を継続するか撤退するかの判断は簡単。黒字が出せるかどうかだけだ」と割り切り、容赦なく切り捨てた。
昨年、HDD事業の売却をめぐって同部門のトップが退職した際には、「あいつは潔く腹をかっさばいたな」などと嘯(うそぶ)き、その冷徹さが、社内の反感を買った。

野副が就任1年目から過去に捉われることなく、次々と大ナタを振るうことができたのは、入社以来のキャリアによるところが大きい。主な職歴は渉外。
特にIBMとの特許紛争では米国に駐在し、現地で積極的なロビー活動を展開した。

反面、富士通の主力事業そのものに携わることはほとんどなかった。
歴代社長がコンピューターの開発や生産、販売、あるいは情報システムの構築といったビジネスを経験し、その実績を基盤にトップに就いたのとは対照的に、野副にはそうした確固たる実績がなかった。
しがらみがなく、合理的な経営判断を下せた強みが、むしろ仇となったようだ。

野副は今年に入って営業改革を進めていた。過去にそれぞれの時代の要請でつくられた営業部門が乱立し、結果的に事業の重複が目立つようになっていたためだ。
最大の懸案になっていたのが、富士通本体と子会社である富士通ビジネスシステム(FJB)とのバッティング問題。
もともと富士通は大口顧客を、 FJBは中小企業をそれぞれ担当する仕切りがあったが、ノルマを達成するために互いの領域に踏み込むようになり、ここ数年は競合相手になっていた。

営業体制をめぐる確執

野副は富士通の先輩に当たるFJB社長の鈴木國明の抵抗を押し切り、同社の完全子会社化を8月1日付で断行、10月1日付でFJB吸収後の富士通の新しい営業体制をスタートさせる予定だった。
しかしFJBの反発は激しく「人事をめぐって富士通社内の調整がつかず、新体制が発表できない状態が続いていた」と富士通関係者は打ち明ける。

「野副さんが辞任を申し出た今日を除けば、直近で会ったのはシルバーウイーク突入直前(9月18日)。その時はFJBのことで話し合った」。
25日の会見で間塚はそう述べ、営業体制の人事をめぐる確執があったことをうかがわせた。

しかし、それだけがプッツンの原因ではなさそうだ。
すべてに合理的な判断を持ち込み、構造改革を性急に進めた野副に、営業だけでなく半導体や HDD、さらにインターネットプロバイダー子会社のニフティなど、各部門・子会社が反発を強め、
それに同調した富士通幹部が退任に追い込んだと見るべきだろう。

誰が引導を渡したのか?

昨年、野副社長就任の記者会見で「取締役には残るが、それは残務を後任の会長となる間塚に引き継ぐため。1年で取締役も退任する」と言った秋草は、今年も取締役に居座った。
「結局は院政だったんだな」(富士通幹部)。富士通の業績を奈落の底に落とした張本人が、今なお「実力相談役」として君臨。幹部人事を牛耳っているのだ。 (敬称略)

2009年11月号
264山師さん@トレード中:2010/03/08(月) 23:43:59 ID:OjbFYZf50
富士通社長解任劇の裏で「社内スパイ」
2009年12月号

これほど陰湿極まりない人事がまかり通る企業があるとは……。
本誌11月号で富士通の野副州旦社長辞任の真相は、取締役に残る秋草直之元社長が引導を渡したと報じたが、社内で厳重な箝口令が敷かれていたその詳細がようやく明らかになった。

富士通が突然、社長交代を発表した9月25日朝の様子はこうだ。定例取締役会など分刻みのスケジュールをこなすため野副が出社すると、秋草に呼ばれた
同じフロアにある相談役室に入ると、秋草のほかにもう一人の男が野副を待っていた。秋草らは野副のスキャンダルを暴く証拠書類を示し、辞任を強く迫った。
野副が抵抗して取締役会は遅れたが、ついに屈した野副はその足で会長の間塚道義の部屋を訪れ、病気を理由に辞任を申し出た。

スキャンダルは何だったのか。「カネかオンナでしょうが、富士通幹部は誰しも叩けば埃の一つや二つは出てくる。野副は脇が甘いから、社長就任時に身辺をちゃんと整理しなかった。
野副以上にスキャンダルの多い秋草が、自分のことは棚に上げてそこを衝いたんです」と関係者は言う。

秋草の部屋でかたわらに控えていたのは村島俊宏。6月まで富士通の子会社ニフティ(インターネット接続業者)の取締役だった。
村島・穂積法律事務所の共同パートナーの肩書も持つ社内弁護士で、1980年に富士通に入社、弁護士資格を取得してニフティや富士通ゼネラルなどの役員になっていた。
村島は和田一也社長とともにニフティを牛耳り権勢をふるったが、「ワダジョンイル」と陰口を叩かれた和田のセクハラ、パワハラは目に余り、社員の不興を買っていた。

ニフティの複数の幹部は今春以降、野副に和田、村島両人を切れと直訴。
当時、ニフティは和田のもとで富士通の承認を得てフリービットやソネットなどとの再編を検討していたが、野副はそれを一時中断して、和田と村島の更迭を6月に断行した。

切られた和田と村島は、2人の後ろ盾だった秋草のもとに駆け込み、恨み節を語った。2人とゴルフ仲間でもある秋草は、村島に野副のスキャンダルを探れと指示。
村島は三つの調査会社を使って身辺や銀行口座などをスパイしたという。

野副解任の策謀を前日までに知っていたのは秋草、間塚、それに富士通中興の祖とも言われる山本卓真ら数人だけ。
海軍上がりの山本は秋草とは一線を画しそうなものだが、共同歩調を取ったのには理由があった。
旧電電ファミリーの時代から、歴史こそ長いが先細りになってきた通信機器部門を、ライバルである NECの通信部門と統合しようと、野副が水面下で画策していたのだ。それに山本が腹を立てたという。

安手の企業ドラマのような「野副降ろし」は、子会社である富士通ビジネスシステム(FJB)の完全子会社化も引き金のひとつ。
富士通本体の巨額赤字で今春、資金繰りに頭を抱えていた野副と最高財務責任者(CFO)の加藤和彦は、キャッシュリッチなFJBの完全子会社化を企てた。
これを察知、憤った FJB社長の鈴木國明(富士通元専務)が、かつての“仇敵”秋草と手打ちして「野副降ろし」で手を組んだのである。
この動きを知った加藤は以降、交渉には顔を見せなくなり、秋草の標的は野副一人に絞られたのである。

極めつきは中国ビジネスをめぐる確執。「社内一の中国通」を自任していた秋草だが、ビジネスはままならなかった。
野副は立て直しを副社長のリチャード・クリストウに委ねたが、クリストウは中国市場に疎い。野副はソフトブレーン創業者の宋文洲と顧問契約を結び、再構築を図ろうとしていたのだ。
宋が書いた「老害」とは秋草のことだろう。

秋草による上からの“宮廷クーデター”に富士通社内は沈黙している。社長交代会見に間塚と出席した藤田正美ら複数の幹部が秋草一派に寝返った。
野副辞任と同時に、野副を支えてきた少なくとも4人の幹部が見せしめに左遷されたが、その人事は公表されていない。

かつて巨額赤字の元凶について「社員が働かないから」と発言、社内外で総スカンを食らって社長を子飼いの黒川博昭に任せた秋草は、財界人への道も閉ざされ、今はひたすら院政にしがみつくだけ。
富士通は末期症状である。(敬称略)