歴史に対する責任って、何も自分のかかわり合いがないことをコミュニティによって基礎付け用としなくても、
一人ひとりが、「仮にそこで悪い行いをした人と同じような負荷がかかった人として自分が生まれていたなら、
自分はそこで悪い行いをおそらく避けられなかっただろう」と洞察することができるなら、それを基礎に、
歴史に対する責任を持つことはできるんじゃないのかな。人は、裁判における情状酌量の意味を理解できるんだから
そういう想像を及ぼす能力は一般的なもののはずだよ。むしろコミュニティはそういう想像力を及ぼす力の妨げになる
固定観念としても働く面があるんじゃないか。
個人としての、コミュニティとしての責任がないからといって、理解に基づく責任がないことにはならないんだから、
それでいいはずなんだよ。なんでサンデルやマッキンタイアがいうような前提が必須になるのか、俺にはよくわからない。
アメリカ人でも日本人でもないアフリカ人が原爆について理解できないなんてことあるだろうか。