BS11 6999

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190名無しさん@お腹いっぱい。
「壁?」抗夫の友人はいくらか怪訝な顔でそう訊いた。「変な話だろう」と抗夫は言った。 そして
一口酒を飲んだ。「地面の中にまで壁があるなんてな」二人は場末の酒場の奥まった場所にあるテーブルに向かい合って座っていた。 抗夫
はたいてい仕事の後で唯一の友人である彼とそこで酒を飲んだ。 その日(というのは、抗夫が壁を抜けようとした翌日のことだが)も抗夫は
仕事が終わるとどちらけら誘うというわけでもなく彼と酒場に入り、 そこで昨夜の出来事を打ち明けた。この友人なら誰かに漏らすこともある
まいと思ったのだ。「俺たちはもしかしたら地上だけじゃなくて、 地下までも壁に囲まれているのかもしれないな」と抗夫は言った。 「なあ、そも
そも壁ってのはいったいーー」友人は咳払いをして抗夫の言葉を遮り、そして酒場の中を見回した。酒場にいる客たちは酒を飲んだり、 看
板娘を口説いたり、大声で喋ることに忙しいらしくこちらを見ている者は誰もいなかった。それでも抗夫もそれ以上壁について話すことをや
めた。もし誰かに聞かれでもしたら、あっという間に憲兵が来ることになる。「まあいいじゃないか」と友人は気を取り直して言った。 「これまで
通りここで暮らせばいい。貧乏に変わりはないけど、毎日仕事があって酒が飲める。それで十分だ。そうだろう?」「ああ」と抗夫は言った。 「そ
の通りだ。また地道に穴を掘るよ。結局のところ、俺にはそれが似合ってるんだろう」しかし翌日、抗夫は仕事場に姿を現さなかった。次の日
も、その次の日も抗夫は仕事に来なかった。 抗夫の友人は何度か家を訪ねてみたが、いつ行っても抗夫はいなかった。 また抗夫には親兄弟
も連れ合いも親しく付き合っている人間もいなかったから、彼の行方に心当たりのある人間はひとりも見つからなかった。 抗夫の友人はどうし
ようか迷ったが、やはり抗夫の試みも含めたすべての出来事を駐屯兵団に話した。そうして翌日から駐屯兵団と憲兵団による大々的な合同
捜索がはじまった。 それは一人の貧乏な抗夫ーー地面を掘って壁を抜けようと試みた犯罪者ではあるがーーの行方を捜すというにはいさ
さか大仰にすぎるものだった。 なぜ彼らがそこまでやっきになるのか、抗夫の友人には理解できなかった。しかし抗夫はとうとう見つからず、彼
が掘ったという穴もついに発見されることはなかった。 そしてまた抗夫の友人もある日忽然と姿を消し、その行方は現在も不明のままである。