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衛星放送名無しさん:
ホークスでもヒッチコックでも、あるいは小津安二郎や溝口健二でも同じことですが、
いずれも脚本に書かれた物語を演出することにはおさまりがつかぬ鮮やかな透明感が彼らの画面にみなぎっています。
それは、ゴダールがヒッチコックの『汚名』(1946)の物語は忘れてしまっても、
ワインセラーの中に並んだボトルのイメージだけは覚えているという場合のショットの強さにほかなりません。
脚本に書かれていたとは思えないショットが意義深い瞬間に挿入されて、それが物語の論理とは異質の領域で作品を活気づけているからです。
ショットの強さとは、見る目を驚かす凝った審美的な構図とはまったく異なるものです。
それは、撮影に入る以前から、一本の映画が生きた画面の連鎖として彼らには見えていたからとしかいえないショットなのです。
それは、編集権が監督には所属せず、プロデューサーに所属していた当時のハリウッド映画における映画作家たちの、ほとんど本能的といえる抵抗だったのかもしれません。
そうしたショットの強さが、サイレントを撮ったことのない黒澤明やフェデリコ・フェリーニFederico Felliniなどの作家には欠けています。
だから、彼らは、生きた画面の的確な連鎖より、流れを断ちきるような審美的に凝った構図のショットの挿入によって、映画を捕らえたつもりになりがちなのです