++洗濯小梨についてトコトン考える−35人目++

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7名無しさん@HOME
小梨を洗濯するのは自由です。ひとつの生き方として否定はしません。

ただし、あくまで仮定の話ですが世の中の人が全て小梨を洗濯することは
生き物としてあってはならない行為です。これは理解できますよね?
人間として出産育児を行うのが種の保存としての原則的な生き方であり、
その行為無くして社会は構成・存続することができないのです。
次の世代を産み出すのは社会の一員として他人に理由の説明などが必要な
行為ではなく、理由など必要としない当たり前の行為なのです。
勿論、身体的・環境的理由によりできない場合は止むを得ません。
自らの意思に反して子供ができないのは、むしろ同情に値するでしょう。

要するに、例外としてそんな生き方(洗濯小梨)があっても良いわけです。
自分たちの生き方は原則に則った人たちがいるからこそ成り立つといった
認識は最低限、分別ある大人として必要だと思うのですがいかがでしょうか?
あくまでも洗濯小梨というのは人として例外の生き方なんですよ。
例外=亜流の生き方なんです。子供を産めと言っているのではありません。
亜流の生き方をする生き物として傲慢・自分勝手な考えを絶ち生きて下さい。
そして、自分たちの生き方は例外的亜流の生き方であると認めて下さい。
言葉でどんなに正当化しても、亜流である事実は変わらないのです。
認められないのであれば、せめて小蟻の悪例を持ち出して批判したり、
産まないのは社会・制度や政治のせいにするのは止めてください。