小室哲哉の歌詞から考える < 華原朋美 >の物語 ** ** (東京経済大学)
発表者は 小室哲哉が 作曲に加えて作詞も担当した曲の歌詞について、 globe の楽曲を
対象に考察した拙論を既に発表している( 山田,1999 )。本報告は、この前稿での考察を
踏まえ、globe の楽曲に見いだされた小室作の歌詞の特徴との比較の中で、globe と同様
に小室が深く関わった華原朋美の楽曲の歌詞を分析することを目的としている。
既に前稿において指摘したように、「 小室にとって、globe の世界を構築する作業と、安室奈美恵
や他の歌い手たちの世界を構築する作業は、 同質のものではないはず 」である。 また、小室が
華原名義の楽曲について歌唱のクレジットを連名にしている点や、ジャケット等の写真へ積極的
に露出していることを踏まえれば、華原と小室のユニットとしての< 華原朋美 >は、小室にとって、
globe と並行して展開された もう一つの「 自らが参加した恒常的な形のユニット 」だったと考える
べきであり、華原名義の楽曲は、 globe の場合と同じように 小室が「 自分のユニットのために 」
「 制約の少ない状況で自在に書き上げることの出来た作品 」として、 小室の資質を率直に反映
していると判断される。
ユニットとしての< 華原朋美 >においては、「 作詞者・小室が歌手・華原の口から引き出す言葉は、
女 = 華原の声であると同時に、女にそのように言わせたい男 = 小室の声として、聴く者に提示
され 」「 受け手は、小室と華原という人物像を介して、作詞作曲者と歌手という関係と男女関係を
重ね合わせ、そこに多重的な意味を読み取っていくことになる 」のである。
(以上、「」内は前稿からの引用)
華原の楽曲の歌詞には、 globe と共通した 小室の歌詞らしい 要素の表出も 伺われる。 例えば
「 I'm proud 」における< 場所 >のコンセプトは、globe や篠原涼子の楽曲にもつながるニュアンス
の言葉づかいを明らかに踏まえている。 しかし、globe の一連のシングル曲で明確に打ち出され
ているような、意識的・戦略的な引用・参照や、 了解困難な歌詞 = 多様な解釈を喚起する手が
かりが散りばめられた歌詞は、華原の楽曲では動員されていないように思われる。
華原の楽曲の歌詞の最大の特徴はわかりやすさである。そこに一貫しているテーマは、男性への
依存を( 迷いや屈折の末に激しい形で受け入れるのではなく )あっさりと 全面的に肯定する女性
の心情であり、もっぱら語られるのは女性の側から見た 男女の微妙な距離感の基づくささやかな
苛立ちや、自責の表明も含めた甘えの感情の表出となっている。 そうした特徴は、同時期にほぼ
並行して構築されていった globe の歌詞世界と対比すると、一層顕著になる。
また、一般的に歌い手 = 華原のパブリック・イメージは、Keiko とも、また安室とも差別化される
形で構成されていったものと考えられるが、それは当然歌詞の内容にも反映されている。しかし、
結果的にそうして 構築された歌詞世界と パブリック・イメージは、( globe や 安室に比べれば )
多様な受け手のセグメントに働きかける形にはなりきれなかったのではないかと推測される。特
に、若い女性の中でも、知的な指向性や、ある程度の人間関係の経験をもった成人女性層への
華原の訴求は、短期間の内に力を失ったのではないかと思われる。
歌詞というテキストを離れた、多様なコンテキストにおける展開を含め、あまりにもわかりやすく
完結していった< 華原朋美 >の物語は、最初のポジショニングの段階から位置づけを変えずに
行けるところまでもっていった実験の顛末と見ることができる。 その意味では、ユニット < 華原
朋美 > 後の歌手・華原朋美の物語は、まったく別個に論じられるべきであろう。
ttp://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/fulltext/99ok.html